1968の年のデトロイト、空港でチャーターバスに乗り込んだら「ミスター・フジオカ?」と呼びかけられた。黒人男性の声だった。運転手の脇にある椅子に大きな男が坐って、視線を宙に、返事を求めている様子だった。ミスター・オーウェル。ぼくの声で、ぼくの現われたのを知ったのだった。前の年、彼の運転で数日デトロイトを走りまわった。その彼が、盲目で現れた。日本人の妻をもつ彼を「日本通」だからと、同僚の黒人ドライバーがアシスタントに推薦したという。Black is beautiful! が叫ばれていた。騎馬巡査が二人組になって物騒な町をパトロールし、見本市会場では、警備員が拳銃をむき出しで腰に差している、それが格別におそろしいものに思えなかったとき、オバマ登場40年前のことだった。月刊誌『工業英語』の巻頭言には、こうした番外がいくつか積み残されている。
藤岡記
だれにだって夢はあるさ。狂おしいほどに思いつめて、夜も眠れないことだってある。でもたいていは、どれほどに狂ってみたところで、年寄の常套句ではないが、時がたてば忘れてしまうものさ。ところが、執念深く夢を忘れないでみつづけた男だっているんだ。ルレクセンブルグ生れのHugo Gernsback(ヒューゴー・ガーンズバック、1884~1967)だ。
『生命の宿る火星』なる本が、アメリカの天文学者によって書かれ、それが独訳されて九才の少年の目にふれた。火星に生物がいる、運河があるという「新説」が、学界は勿論のこと一般でもかまびすしく語られていたのだから、少年が火星、宇宙に夢中になるのは当然なのだが、彼の場合は、少しばかり度がすぎていた。異形の生物がいる、運河を作った文明もある、都市もあろう、と思うと、もう輿奮の極、二昼夜、熱を出しうわごとをいい、医者がつきっきりでうろうろしたというんだ。
生国の技術学校で学んで、電気教師の資格と、ちょっとした発明を持ってアメリカに移民した。十九歳のときだった。発明したのは改良電池で、そう経済性のあるものではなく、自動車のパーツ屋に細々と売れたのだが、一九〇七年の不況で、からっきしだめになってしまった。仕方なく一時凌ぎの会社(part-time company)のつもりで電気製品の輸入販売業を始めた。自分で設計した量産廉価の家庭用ラジオセットも含めて、通信販売としたのだが、きわめて独創的で、カタログを月刊誌のような定期刊行物にして予約制にした。たちまち一万人の無線アマチュアを組織し、三極真空管の生みの親リー・ド・フオーレを会長にしてWireless Association of Americaまで作ってしまった。
ニューヨークのどまん中で、自製品のWalkie-Talkie(携帯用無線電話器)をセールスマンにかつがせ、実演デモをさせたこともあった。アイデア抜群。これだけでも、アメリカの技術史、あるいは商業史に名は残ったんだろうが……。
カタログ雑誌“Modern Electrics”を発行しだして三年目、一九一一年の四月号にのせるタネにつまったことがあった。ここでへこたれてはvisionary entrepreneur(夢想的実業家)の名がすたる。構想を練り、スペース(誌面)を埋めるべく、自分でペンをとって書きだした。“Ralph 12C41+”。十二回連載のスペース・オペラ(宇宙活劇)だった。カタログ雑誌は、空想科学小説発表の場へと変っていってしまう。それからのガーンズバックの仕事は、作家であり、雑誌発行人であり、多くの新人作家を育てる編集者でもあり……。1928年に、“Amazing Stories”誌を創刊したときには、science fictionなるものを、不動の文学ジャンルに育てあげ、「SFの父」と呼ばれるようになっていた。火星に夢中になった少年が、夢をみつづけて、その夢床を永遠なるものにしたわけだ。
晩年は、さすがの天才もelectronicsの時流についていけず、雑誌も手放し、新しく手掛けても失敗、書くものも不評だった。ただ友人に出すクリスマスカードには、売り物でないSFを書き続けていたという。一九五三年には、後輩のSF作家たちが「ヒューゴー賞」なるものを設定して、彼の名を歴史に永く留めたんだが、やはりSFの世界だ、夢が残ったんだ。
(MARCH 1977)



























