1968の年のデトロイト、空港でチャーターバスに乗り込んだら「ミスター・フジオカ?」と呼びかけられた。黒人男性の声だった。運転手の脇にある椅子に大きな男が坐って、視線を宙に、返事を求めている様子だった。ミスター・オーウェル。ぼくの声で、ぼくの現われたのを知ったのだった。前の年、彼の運転で数日デトロイトを走りまわった。その彼が、盲目で現れた。日本人の妻をもつ彼を「日本通」だからと、同僚の黒人ドライバーがアシスタントに推薦したという。Black is beautiful! が叫ばれていた。騎馬巡査が二人組になって物騒な町をパトロールし、見本市会場では、警備員が拳銃をむき出しで腰に差している、それが格別におそろしいものに思えなかったとき、オバマ登場40年前のことだった。月刊誌『工業英語』の巻頭言には、こうした番外がいくつか積み残されている。
藤岡記
Benjamin Franklin(1706~1790)は、とてつもなく長生きをし、とほうもなく有名になった。そして人類へも、生国へも、地域社会へもひとりの人間がなし得たとは思えぬほどの、申し分のない贈物を残して逝った。
フランクリンは、十二のとき、長兄の経営する印刷屋に徒弟に出された。匿名でせっせと新聞に投稿し、文才をうたわれ、期待されるようになるが、それが因で兄と争いをした。フィラデルフィアに出て、イギリスにも渡った。戻ると、借金をして新聞社を買い、実業の途へと入る。一七三七年、“Poor Richard’s Almanac”を書き、出版し、一躍ベストセラーを作る。筆使いはロンドン時代のpolish(優雅さ)、基調はアメリカ生れのhumorであった。かたわら、アメリカ大陸に初めての会員制図書館を開設、病院や大学の設立に力を入れた。市の要職にもついた。
年間千ポンドの収入(当時の総督と同じ年収であったという)が可能となった一七四八年、彼は実業からの引退を決意した。四十歳代に入って、それはかねての計画であったというが、自然科学の研究に没頭するのである。一七四六年、ボストンで稲妻と電気が同一である実験をした。この研究の結果から、これより先に発明したフランクリン・ストーブと同様、避雷針が家庭に備えられ、それだけでも科学者フランクリンの名を残したろうが、引き続く電気の研究は、その実験方法も含めて世界の学者に強烈なインパクトを与え、フランクリンの名をアメリカの誇りとさせた。――battery、condenser、conductor、charge、discharge、armature、electric shock、electrician、passive(negative)electricity、plus(minus)charge、の概念が、言葉が、フランクリンの成果から生れてきた。
やがて、アメリカがイギリスの植民地の状態から独立する時が訪れる。“偉大なヤンキー”は、才能、人望、英・仏への知名度の故に外交官として駆り出される。そして、アメリカ独立・建国の、独立宣言をはじめとする四大公文書に、ことごとく署名者として名を連ねた。最後のものは、八十二才のときの、合衆国憲法であった。
時代が変わろうとするとき、そこに怪物が生れる。フランクリンもそうであるが、彼が第二の人生を歩み始めた頃生れた、独立宣言の起草者、Thomas Jefferson(1743~1826)もまた、その業績といい長寿といい、怪物列伝に加えねばならぬだろう。彼は、フランクリンのような科学における発明・発見はなかったが、フランクリンの意を理解し、その科学精神に啓発され、科学技術の発展こそが建国の基礎となると信じて国づくりを行った。十九世紀入って、アメリカがホイットニ、コルト、ホー、ブラウンのような技術の巨人たちを輩出したのも、ジェファーソンの教えがあってのことと思われる。
アメリカは、広い空間の中で、フランクリンたちが、理想を求め、議論を行い、血を流しながら作った国である。かつて、このようにして作られた国はなかった。建国二〇〇年の間、先人の残した主張が、アメリカの政治家によって語られなかったことはない。人が抱き、形として表わした「理想」によって成立った国が、そのman-madeの原点を見失なってはならないのであるから。
世界史上、その後、同じように「理想」を掲げて人為的にひとつの国が誕生している。「共産主義とは“ソビエト権力”プラス“全国の電化”である」と、レーニンが科学技術の振興にかけて叫び、設計したいまだ60年にも満たない国であるが……。
(MARCH 1976)




























