入門翻訳勝ち抜き道場

巻頭エッセイ

1968の年のデトロイト、空港でチャーターバスに乗り込んだら「ミスター・フジオカ?」と呼びかけられた。黒人男性の声だった。運転手の脇にある椅子に大きな男が坐って、視線を宙に、返事を求めている様子だった。ミスター・オーウェル。ぼくの声で、ぼくの現われたのを知ったのだった。前の年、彼の運転で数日デトロイトを走りまわった。その彼が、盲目で現れた。日本人の妻をもつ彼を「日本通」だからと、同僚の黒人ドライバーがアシスタントに推薦したという。Black is beautiful! が叫ばれていた。騎馬巡査が二人組になって物騒な町をパトロールし、見本市会場では、警備員が拳銃をむき出しで腰に差している、それが格別におそろしいものに思えなかったとき、オバマ登場40年前のことだった。月刊誌『工業英語』の巻頭言には、こうした番外がいくつか積み残されている。

藤岡記

 
洗濯女が裾をからげていた……
藤岡啓介
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街の只中で、軒を並べた家々の前で、大きな盥(たらい)がおいてあった。女たちが、服を高々とたくしあげて、盥につけた洗濯物を踏み洗いしている、スコットランドの大都市、グラスゴーの洗濯屋街でのことだった。マンチェスターから二泊三日の馬車旅を続けてきたRobert Owen(1771~1858)は、イングランドでは見られない、この女たちのあられもない姿に驚かされた。

当時イングランドとスコットランドとは、全くの異郷といってよかった。たとえば、通行税をとる関所でも、オーエンがイングランドの金貨しか持ち合わせがないといえば、関守たちは、スコットランドの銀行券(紙幣)しか扱ったことがないので、「帰りに払ってくれ」といって受取らなかった、という。帰りに同じ道を通るかどうか分らないのだが、と正直にいうと、「そいつは神様がご存知のことだ」、どこでも関守たちは同じことを答えた。

この頃(十八世紀も終ろうという一七九〇年代)、オーエンはもう一流の技術者、企業家として認められていた。早くから親元を離れて、織物商の店員をしたり、帳場をあずかったり、人と組んで、小さな紡績工場をやった。十九才のとき、ある大工場が総支配人を求めているときいて、押しの一手でその職を得た。

工場は男女合わせて五百人の従業員がいた。中には、十歳前後の子供までも働いていた。そして設備は、発明家アークライトが自から据えつけ、指導したという、極細糸をつむぐ、当代一の近代工場だった。オーエンに分ることは、店員時代に身につけた糸の品質の見分けと、帳簿だけだった。製造技術も、五百人の従業員管理も全く経験のないことだった。

オーエンは、まず機械の図面を詳しく読んだ。ついで実際の工程を、ひとつひとつ観察した。工場の隅から隅までを知り、働く人の気分にまでも気を配った。十九才の支配人は、こうして六週間というもの、アークライト方式を完全に咀嚼するまで、支配人らしい口はきかず、ひたすら沈黙のうちに過した。そして、口を開くようになった時には、製品はアークライトの時よりも品質が高く、生産の量も増えたという。オーエンの名が糸の梱包に刷り込まれてあれば、同じ120番手の細糸であっても価格は割高になり、市場人気は上々であった。名が高まり、アメリカ産の木綿をヨーロッパで史上初めて糸にするという名誉ある機会も手にした。

さて、グラスゴーに乗り込んだオーエンの仕事は、販路の拡大であったが、紡績の専門家オーエンに、ニュー・ラナークという山間にある“工場村”を見て批評をきかせてほしいという話がもちあがった。グラスゴーの街中で、たまたま紹介された工場村の持主デール氏の令嬢の依頼だった。工場は滝のある景勝の地にあった。設備は申分なかった。そして令嬢も。

オーエンの才知と企業欲と、そして恋の力づけで、日ならずして、工場も令嬢も手に入れることになる……。

一八〇〇年一月一日、オーエン夫妻はニュー・ラナークに居を定め、この山問の工場村を実験場として、理想郷(Utopia)を創っていったのである。尻が見えるほどに服をからげた洗濯女や、十二時問も働く子供たちはあってはならぬものだ。技術者が“技術”と“こころ”をengage(かみ合わせて)させて杜会に目を向けたとき、そこになにかが起こる……。英語に、socialismという言葉が登場するのは、オーエンがニュー・ラナークを統治してから四半世紀たった一八二五年のことであったという。

(OCTOBER、1976)

2009年3月2日号