1968の年のデトロイト、空港でチャーターバスに乗り込んだら「ミスター・フジオカ?」と呼びかけられた。黒人男性の声だった。運転手の脇にある椅子に大きな男が坐って、視線を宙に、返事を求めている様子だった。ミスター・オーウェル。ぼくの声で、ぼくの現われたのを知ったのだった。前の年、彼の運転で数日デトロイトを走りまわった。その彼が、盲目で現れた。日本人の妻をもつ彼を「日本通」だからと、同僚の黒人ドライバーがアシスタントに推薦したという。Black is beautiful! が叫ばれていた。騎馬巡査が二人組になって物騒な町をパトロールし、見本市会場では、警備員が拳銃をむき出しで腰に差している、それが格別におそろしいものに思えなかったとき、オバマ登場40年前のことだった。月刊誌『工業英語』の巻頭言には、こうした番外がいくつか積み残されている。
藤岡記
指物師の兄のところで徒弟をしていたとき、家具作りとは縁のない、建物をそっくりそのまま移動させる仕事を請負ったことがあった。だから、このシカゴから転がり込んできた契約だって、自分にやれないことはあるまい。生れ故郷ブロクトンを離れて、1855年のこと、シカゴヘとやってきた。ミシガン湖とイリノイ河とに沿ってできた町だったが、土地が低く、地下に倉庫を造った家では、出水に悩んでいた。建物ごとレベルを上げるのが、気負いこんで挑んだ仕事であった。なかでも、泊り客に気づかれないままにホテルを持ち上げることが、ことの評価を決める“離れ業”といわれたが、これにも成功した。己れについての「伝説」を演出することが輝かしい未来を約束するものと、George Mortimer Pullman(1831~1897)は知った。
成功の美酒の中で、プルマンは少年の頃の夢――寝台車のことを思い出した。丁度東部では、ウッドラフが特許をとり、2百万ドルの資本金を集めて寝台車作りを始めていたときのことである。若い野心家のカーネギーがウッドラフに目をつけて、217,50ドルを投資し、2年目で5千ドルの配当を得たという、アメリカ資本主義が若い、若い時代だった。
プルマンは、自分の才能と「伝説」と2千ドルほどの資金をかけて、鉄道会杜に2台の普通車を寝台車に改修することを申しでた。ウッドラフのそれとは違って、オリジナルの設計からのものでなく、あくまでも改修であったので、出来は良くなかった。売れず、プルマンは裸になった。シカゴを離れ、コロラドヘと落ちていった。コロラドから先へは行かなかった。カリフォルニアのgoldを求めるよりも、moneyを早く得たかったのだ。金鉱目当の男どもを相手に雑貨商を開いて、そこで4年、全くオリジナルな寝台車の設計に没頭した。
1865年、プルマンの新形車がシカゴで披露された。車両の幅も高さも、当時の規格よりは大きかったが、座席を寝台に変える構想、振動防止のスプリング設計など、旅客には満足のいく、ウッドラフのものよりも秀れたものだった。ブノレマンはいう。 “My contribution was to build a car from the point of view of passenger comfort; existing practice and standards were secondary.” (【この英文を訳す】)
しかし、現実のプラットホームや鉄橋の幅や高さを重視せずに斬新さを生み出したとしても、そして旅客は満足するとしても、ここに「僥倖」がなかったら、“皇帝プノレマン"は誕生しなかったであっただろう。たまたま、時の大統領リンカーンが暗殺され、遺体をスブリングフィルドに運ぶのに適わしい車両として、ブルマンの豪華設計Pioneer号が選ばれたのだった。プルマンに再び「伝説」が結びついて、やがて全米にPullman Carが走ることになる。シャンデリア、極彩色デザインの天井、レストラン車、ホテル車、広い洗面所、豪薯なカーペットー……旅行する庶民は、ナポレオンと同じ気分で大陸を横断した。プルマンは、金と名声と権力に酔った。
だが再び、プルマンは失敗する。1877年の賃金10%カット宣言に端を発して、20年近くにわたって、労働争議が続くのだ。後に米国杜会党を創設した、名うてのデブスの率いる全米規模の労組との争いに、ついには流血があり、ことの終止符が打たれた。プルマンは、Pullman carと同じに、Pullman strikeという言葉を辞書に残して死んでいくのだった。しかし、人々は、120万ドルという大金が無料の手工芸学校の基金として残されていたことを知ったとき、再びプルマンに栄誉を与えようと思った。
そしてわれわれは、Pullmanの名は冠してないが、vestibule(車両間の連廊)を発明し、今日に到るまで全世界が基本設計に手を加えることなく使っている事実から、エンジニア・プルマンの偉大さに脱帽したい。
(September 1976)




























