1968の年のデトロイト、空港でチャーターバスに乗り込んだら「ミスター・フジオカ?」と呼びかけられた。黒人男性の声だった。運転手の脇にある椅子に大きな男が坐って、視線を宙に、返事を求めている様子だった。ミスター・オーウェル。ぼくの声で、ぼくの現われたのを知ったのだった。前の年、彼の運転で数日デトロイトを走りまわった。その彼が、盲目で現れた。日本人の妻をもつ彼を「日本通」だからと、同僚の黒人ドライバーがアシスタントに推薦したという。Black is beautiful! が叫ばれていた。騎馬巡査が二人組になって物騒な町をパトロールし、見本市会場では、警備員が拳銃をむき出しで腰に差している、それが格別におそろしいものに思えなかったとき、オバマ登場40年前のことだった。月刊誌『工業英語』の巻頭言には、こうした番外がいくつか積み残されている。
藤岡記
大工仕事では、「一錐(きり)、二鉋(かんな)、三手斧(ちょうな)」ということばがあって、力を使う作業の難度を表わすという。たとえば、幅1尺、長さ6尺余の杉板を、刃幅1寸4分から6分の荒削りカンナで削ると、普通の大工で1日200枚、達者な者で300枚が大方であったという。1,000枚削ったという話もあるが、これは多分に伝説的で、「夜星朝星(よぼしあさぼし)」で働いた職人の気概を示したものであろう。
伝説といえば、かの左甚五郎も、数々の逸話を残しているが、彼の存在は、歴史的には不詳のこともあって、名人、英雄を好む市井の人々が創りあげた人物でもあるようだ。甚五郎は1日がかりで1枚の板しか削らなかった。しかし、その削り上げた板を2枚合わせると、不思議や、2枚の板はぴたりとはり合わされて、だれもそれを引きはがすことができなかった、という。
1875年のこと、これは実録であるが、Tyndall 教授が英王立科学研究所で、甚五郎ならぬイングランドの名人・発明の人である Whitworth が研摩した金属片を2枚合わせると、その接合力は大気圧よりも強いことを明らかにした。このことは、名人芸をたたえるのではなく、ものの精度を計器で測定するのではなく、すこぶる感覚的に、ものに則して具体的に捉えて、科学的に納得させうることを示したものといえよう。
さて、このことを知ってか知らずか、あるときCarl Edvard Johansson(1864~1943)は生国、鋼の国スウェーデンからドイツヘと向って旅をした。時計、ミシン、そしてライフル銃、これらは良い金属材を、互換性(interchangeability)のある高精度部品を量産して組み上げるものだが、当時のスウェーデンの代表的な産業となっていた。いま、旅するヨハンソンの課題は、ライフル銃が、レミントンからモーゼルに変わったことであった。アメリカの Pratt & Whitney からきた仕様書を見ると、これまでとは違った複雑な加工、精度が要求されていることが分った。どうするか。すでにモーゼルを作っているオベルンドルフの工場に滞っているとき、ヨハンソンは自分のエスキルスチューナ工場での職人の有様、設備機械、工具に想いを走らせて、ある考えに到達した。こうすれば、オベルンドルフの連中に負けずに、いやそれ以上に、手早く、高精度のモーゼルを作れる……。
帰国したヨハンソンは、Sandvik Steel にクロム・ニッケル鋼の棒材を特注した。とくに熱処理をやかましく行った。焼き入れをする、室温に戻す、再び焼き入れをする、戻す。それを9回行って、彼は自分の作ろうとする“ゲージ・ブロック”を満足させる材料を得たのだった。大小、さまざまな寸法のブロックを102個作って1セットとする。もしこれらが、精度正しい金属片であるならば、2万通りのものの測定に使えるであろう。職人は、目盛を読むことも、針の動きに気を使うこともない。ただ“ピタリ”と合わすだけでよい。
100mに対して1,000分の1の誤差内でブロックを作る――こうして得た材料を、ヨハソンは自宅で極秘裡に研摩した。だれも、それを信じてはくれないし、狂人扱いされるのがオチだった。使う機械は、精妙な指先の感覚を直接ブロックに伝えられるような動きをしてくれるものでなくてはならない。細君の驚くのを尻目に、ヨハソンは家庭用ミシンをこわした。足ぶみ動力、手先での研摩とラッピング。1896年、今もなお測定室で神器扱いにされている「ヨハソン」が、やっと完成したのだった。
因みに、ミシン改良手(足)動ラッピング盤は、1918年になって、W. E. Hokeによって、近代的精密機械となった。
(August 、1976)



























