入門翻訳勝ち抜き道場

巻頭エッセイ

書きたいことがあって書く、書くからには、エッセイという伝統を踏まえた文章を書きたい。その伝統とは何か――藤村や独歩、漱石のスケッチか、それとも、いやいやそんな議論ができるほどの教養はない、書く、一つのことを書く、そうだ、この話を聞いてほしい、読んで欲しい、と願って書く。たった一、二行ですむことを「文飾」する。「大事に育てていた小兎が、どうしたことだろう」、ヘンリーのことを書くのに、この冒頭がなかなかに出てこなかった。書き終えると、この冒頭だけが残った。うまかったな、と。『工業英語』(一九七四年創刊)の読者には、永いことぼくの自己満足にお付き合いいただいた。

藤岡記

 
おお、牧場はみどり……
藤岡啓介
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ヨーロッパを歩くと、観光客のためのコースのひとつに、ワインセラーを訪れて土地のワインを味わう時間が折り込まれていることがある。wine cellarは、辞書では、ぶどう酒貯蔵用穴倉、となっているが、これを観光客は、ぶどう酒を貯え、酒場を営み、観光客だけでなく、土地の人々も愉快な一夕を過す場所、とでも補って理解しなくてはならない。さらに、外国人には民族衣装が添えものになり、土地の人々には安い料金がお楽しみとなっている――とでもしたら、その雰囲気をさらに伝えられるかも知れない。

東欧のボヘミアのはずれの村に、こうしたワインセラーを訪れたことがある。土地の人々に混ざり、吹奏楽をきいたり、ウォッカのように透明な強い地酒をふるまわれた。飲めば、恥ずかしくなく歌えた。“おお、牧場はみどり……”、中学のとき、ボヘミア民謡として知った節だった。土地の人たちは、ボヘミアの曲ではない、初めてきく日本の曲だと主張した。「しかし」と、そこでもう一度口ずさんでみる。人々は首を横に振った。「これは、たしかにボヘミアの曲である。しかし二百年も昔のものだ」舞台でトランペットを奏していた老人が、いつか席にいて、助けてくれた。

「よくあることだ。いまわたしらがやっていたŠkoda Lásky(シュコダ・ラスク、What a pity my love!)という曲にしたって、ドイツ人はドイツの歌と信じているし、アメリカ人はアメリカのものだとがんばるよ。きまって酒場で歌われるのだから、どこの国というよりも、酒飲みの歌としてしまえばよいのだが。なに、Jaromir Vejvoda(ジャロミール・ヴァイヴォダ)という、れっきとした作曲家が作ったものだよ」

ひとつの民謡が、二百年もの時間の経過をみると、生国では忘れ去られ、八千キロの空間を越えた所で子供の学習教材となっている。時空のいたずらとでもいうのだろう。

ユーゴスラビアのクロアチアで生れたNikola Tesla(1856~1943)にも、不思議な縁(えにし)がある。テスラは発明家の子として生れ、プラハ、パリで学び、1884年にアメリカに渡った。エジソンの主宰するMenlo Parkの研究所で電気技術者として働くうちに、生涯を電気の研究、それも交流という当時まだ未開発であった新しい分野に的をしぼった研究をしようとした。数年エジソンのもとにいて、ついで、ウエスチングハウスの所で働いた。

1887年、Tesla Electric Companyを設立して独立の機をつかんだが、財政的につまづいてしまう。以来、彼は才能を傾けて、アイデアと発明特許を追うことになる。高周波交流を生じる感応コイル、自分の名を冠した“Tesla coil”を発明した。induction, synchronous, split-phase motorも彼によって発明され、Tesla motorと呼ばれた。生涯に七百余の特許を出願し、アイデアのままに終ったのは七十八歳の誕生日に発表した殺人ビーム――瞬時に百万人を殺りくでき、250マイル彼方の飛行機を一万機破壊する威力があるという――だけであったという。

テスラの発明の全ては、市民権を得、骨をうずめる地となったアメリカで行われた。生れたクロアチアでは、テスラをアメリカ人と思っている。彼に教育を与えたボヘミアでは、アメリカの発明品であるTesla coilを主製品とする電気会社TESLAを生み落した。

いまTESLAは、従業員八万余を擁し、通信、計測・計測・民生機器での東欧の雄となり、そしてまた、アメリカの発明品であるIC(集積回路)の主メーカーたらんとしている。ニコラ・テスラの全くあずかり知らぬことであるが。

(MAY 1976)

2008年12月8日号