書きたいことがあって書く、書くからには、エッセイという伝統を踏まえた文章を書きたい。その伝統とは何か――藤村や独歩、漱石のスケッチか、それとも、いやいやそんな議論ができるほどの教養はない、書く、一つのことを書く、そうだ、この話を聞いてほしい、読んで欲しい、と願って書く。たった一、二行ですむことを「文飾」する。「大事に育てていた小兎が、どうしたことだろう」、ヘンリーのことを書くのに、この冒頭がなかなかに出てこなかった。書き終えると、この冒頭だけが残った。うまかったな、と。『工業英語』(一九七四年創刊)の読者には、永いことぼくの自己満足にお付き合いいただいた。
藤岡記
建築技術者の父は、白軍に加わり、土木工学を学んでいた息子は赤軍に身を投じた。一九一七年、革命がエイゼンシュテインの父と子の関係にまで及んだ。ロシアのことである。労働赤軍は、セルゲイの絵心を知って、列車や要塞などにカムフラージュ(迷彩)を描かせた。彼の最初の“芸術活動”である。煽動列車の乗り込んで、国内をまわった。一九二〇年のある日、ベロロシアの小さな町ヴィテブスクにさしかかった。
奇妙な田舎――ある種の喜悦を介在させることで神と人間との間の対話が得られる、というロシア・ユダヤ教の一宗派Hasidismがはびこり、そしてあの“幻想の画家”マルク・シャガールを生み育て、彼のこころを終生、故郷、このヴィテブスクに回帰させる魔力を持ち、そしていま、詩人マヤコフスキーがたてこもり、詩を朗じ、宣伝ポスターを描きまくる通信社ロスタ(後のタス)がある町に、ゼルゲイは滞まった。マヤコフスキーのポスターが貼り出される「ロスタの窓」での興奮もさることながら、セルゲイは、ここで彼の生涯を決し、やがて一世を風靡させる映像技術への糸口をつかむのであった。
「馬」という文字がある。これは馬の形を象形化したものである。「門」という文字がある。これに「耳」を加えると「聞」くとなる。具象から抽象に、さらに概念へととめどもなく広がる漢字の面白味を、日本から帰ったひとりの政治委員からきかされた。こころの中のイメージを形としていかに表わすかに迷い始めていたセルゲイにとって、漢字の話は新発見だった。とりこになった。三〇〇余の漢字を記憶した。やがて、浮世絵の写楽、歌舞伎、万葉の短歌にまで彼の関心は深まり、独特の日本学が展開されることになるのだが……
閑話休題。
セルゲイ・M・エイゼンシュテイン(1889~1948)に課せられた仕事は、演劇や映画による宣伝であり、これは形にしたもので思想を語ることだった。いく度かの実験があった。アメリカ映画を徹底的に分析して、1ショットのコマ数までも記録した。画像と画像の組み合わせによって、たとえば西部劇では異常な緊張と興奮がもたらされる。文字と文字の組合わせで、新しい概念が生まれるように、互いにつながりのない画像であっても、それを組み合わせることで、リズム・テンポを変えることで、新しいイメージを表現できるはずだ。
1925年に公開された『戦艦ポチョムキン』で、なかでもオデッサのリシュリュー階段の場面で、エイゼンシュテインは、もっとも効果的に彼の理論による画面づくりを行った。驚きと恐怖の表情、アップ! 転がり落ちる乳母車、吠える石像のライオン……。映画史上に永遠に残るオデッサ階段の6分間の場面は、彼の理論をもっとも具体的に証明するものとなった。土木工学ではмонтаж(montage)は「組み立て」であったが、ここで映画におけるモンタージュ理論が現われるのである。
異質のものにリズムとテンポを与え、それをモンタージュすること――これは科学技術の課題でもあろう。なお、セルゲイがカムフラージュを描いていたころ、マルク・シャガールもまた、故郷で同じように迷彩に腕をふるっていたという。
(APRIL 1976)



























