入門翻訳勝ち抜き道場

巻頭エッセイ

書きたいことがあって書く、書くからには、エッセイという伝統を踏まえた文章を書きたい。その伝統とは何か――藤村や独歩、漱石のスケッチか、それとも、いやいやそんな議論ができるほどの教養はない、書く、一つのことを書く、そうだ、この話を聞いてほしい、読んで欲しい、と願って書く。たった一、二行ですむことを「文飾」する。「大事に育てていた小兎が、どうしたことだろう」、ヘンリーのことを書くのに、この冒頭がなかなかに出てこなかった。書き終えると、この冒頭だけが残った。うまかったな、と。『工業英語』(一九七四年創刊)の読者には、永いことぼくの自己満足にお付き合いいただいた。

藤岡記

 
名を残す……
藤岡啓介
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あの巌窟王の復讐譚の中で、モンテクリスト伯ことエドモン・ダンテスが、銀行家ダングラールを破産に陥しめようと、信号手を買収し、パリに贋せの伝文を送らせて、ダングラールのやっていた公債投機を狂わせてしまうところがある。フランスの静かな田園風景を描き込み、信号手とのユーモラスなかけ合いがあるなどし、物語の緊迫感が暫時柔和らげられるところだ。

デュマがのんびりと牧歌的に描写した当時の通信システムは、“Chappé”と呼ばれていたもので、文化、経済、政治の中心であるパリにヨーロッパの主要地点の情報が、寸秒(?)を争って集中されるように仕組まれていた。しかし、担う役割の重要さに比べて、仕掛けはすこぶる原始的で、手旗信号のように、腕木を動かして暗号化した伝文を送るものだった。小高い丘を選んで、20~30キロの間隔で塔を建てる。小さな望遠鏡を手にした信号手が、塔の上で、送られてくる暗号を解読する。解読すると、塔を下りて、腕木を動かすクランクを操作して、つぎの地点に通信する。semaphoreといわれるもので、このアイデアは、すでに十七世紀のイギリスで実用化されていたものという。telegraphという言葉も、生れていた。

デュマが小説の重要なプロットのひとつに採用したほど、当時のヨーロッパでの「情報」の価値は一般にも十分に認識されていたのだが、何十倍もの空間を持つ新大陸アメリカでは、情報の正確さ、速度を求める声はいっそうと高かった。アメリカ人モールスによってtelegraphが近代的な「電信・電報」になったのは当然のことであるかも知れない。

モールス(Samuel F.B. Morse, 1791~1872)は、デュマがパリのカフェに文人たちと屯ろしている1830年の頃、アメリカの新進気鋭の画家として同じパリに滞在していた。アメリカでは売れる絵といえば肖像画だけであった。あき足らない、絵はドラマでなくてはならぬ。そう思って、歴史画を研究にパリに渡ってきたのだった。1832年、帰途についた。そして、画家としてパリを発ったモールスは、ニューヨークに着いた時は、発明家に変身していた。船中で耳にした“drawing sparks from a magnet”という電磁石に関する一連のファラディの研究から、電磁石を使う通信器のアイデアを得たのだった。それから10年余、この当時のアメリカの発明家のご多分にもれず、貧困、飢餓と苦闘を経て、1844年に、モールスは国から3万ドルを引き出すためのtelegraphの初の公開実験に成功するのである。“What hath God wrought!”が、世界で初めての電文の記録となった。

発明家モールスが、まだひとりの偏執狂であった時代、あるとき、画家時代の教え子に会った。金がないというと、教え子は、持ち合わせの十ドルが役に立つならといって貸してくれた。食事もふるまってくれた。モールスにとっては24時間ぶりの食事であり、十ドルは、絶えて持ったことのないまとまった金額であったという(肖像画を描けば、一点で六十ドル稼げたというモールスであったのに)。

モールスは教え子にいった。「画家になるなんてくだらない。だれも自分の芸術を理解してくれない。飼い犬の方がましだ」教え子は忠実に、師の言葉に従い、軍人となったという。たいして出世はしなかったが倖せであったという。そしてモールスに十ドルと食事をふるまったことでStrotherという名が残った。

(FEBRUARY 1976)


アメリカの人たちにルーブルにある絵画がどのようなものであるか教えようと、モールス自身が描いた絵。
http://www.edwardsamuels.com/illustratedstory/isc6.htm
2008年11月10日号