入門翻訳勝ち抜き道場

巻頭エッセイ

ぼくは日記を書かない。仕事の中に封じ込めた。あのとき何をしていたか、書いたものを読みながら辿っている。得意の日々もあったが、およそは苦闘、苦悶の日々だった。そうしたとき、これだけはと、執念を燃やして書き続けていた。月刊誌『工業英語』の巻頭言。1974年4月から1987年3月まで、13年間毎月、横組み1300字という制約の中で書いてきた。日本の技術者に言葉を与えよう、という高ぶった気概で書き出した。これを読んでくれれば、時事英語も商業英語も工業英語もおのずと習得できるはずだ、差別も公害も戦も無くなるはずだ――それはだって「魂」の問題じゃないか。そして今読み返してみると、同じことを呼びかけたくなった。翻訳者の皆さん、再掲、お許しのほどを。――「けれども、私は、信じている、この短編集、『晩年』は、年々歳々、いよいよ色濃く、君の眼に、君の胸に浸透していくにちがいないということを。私はこの本一冊を創るためにのみ生れた。」これは太宰治の言葉だが未だに忘れられないでいる。

藤岡記

 
乃木将軍夫人のミシン……
藤岡啓介
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アメリカでタイプライターが発明され普及されだした頃(1890年代)、文豪マーク・トウェーンは、その宣伝の片棒をかつがされた。「もう、Type-Writerを使うのはやめました。なぜなら、これを使って手紙を書くと、どんな機械を使ったのか説明をこまごま求められたり、上手に使うのにどれほどかかるのか聞かれたり、必ず返事を求められてしまうのです……」。トウェーンの宣伝文はユーモラスに続くのだが、末尾に作家らしい形容を加えて新しい機械の紹介をしている。“and so I don’t want people to know I own this curiosity-breeding little joker”(【この英文を訳す】

売りたい商品が、歴史的な出来事に用いられたり、有名人によって評価されたりすれば、売りたい者にとってこれほど有難いことはないのだが、近頃では演出過剰気味で、トウェーンの諧謔もなければ真実味のないものが多く、有難味が薄れてきてしまっている。積極的に宣伝効果を演出しなくても、良い商品であり、したがって広く普及しているものならば、どこかで歴史的な事柄にかならず関わりを持つもので、たとえばミシンのシンガーである。

オービルとウィルバーのライト兄弟は、ノースカロライナ州のキティホークで、動力付飛行機による人類初の有人飛行に成功した(1903年)が、このときのFlyer 1の羽布(はふ)は、兄弟の母親が持っていたシンガーで縫ったものであったという。南極探検で名高いバード少将が極地に赴くとき、6台のシンガーを装備に加えていった事実もある。またロシア皇帝アレキサンダー三世は、陸軍で使う25万帳のテントを作るため、シンガー社にミシンを大量に特注したという記録もある。スターリンの母親が使っていたミシンもシンガーであったというし、わが国のことでは、現在東京の乃木神社に納められている乃木将軍夫人の使ったミシンが、シンガーの珍品として知られている。

Isaac Merrit Singer(1811―75)は、ボストンの機械工であったが、あるとき、当時使われていたミシンをみて、即座にもっと良いものが作れると確信を持ち、知人から無理して40ドルの資金を借り、彼のアイデアによる新しい「縫う機械]を作り上げた。1850年のことで、この試作には丸々11日間かかったという。基本的な構造では、先人Elias Howe (1819-67)の特許に抵触したが、足踏みで動力をとる、針の動きを上下方向にする、糸のボビンを新設計して糸のもつれをふせぐなど、独自の改良を行った。だれにでも使える、今日的ミシンの原型を作ることに成功したのだった。

しかし、シンガーがとくに秀れていたことは、当時、ミシン1台で家一軒が買えるとまでいわれていた高級品を、割賦販売で売ることを考えたことである。これは世界で初めての販売方式であった(1854年)。

高級品、高精度機械、量産、割賦制……シンガーは新機軸を打ち出したのだが、さらに、ハウとの特許問題も、プール制を提唱して円満解決をしている。

1840年の頃、週給わずか9ドルで妻子四人を抱え、貧乏のどん底にあったハウが考えだしたミシンであるが、シンガーのおかげで、家庭用品となり、ハウの晩年はまことに優雅であったという。

(OCTOBER 1975)