入門翻訳勝ち抜き道場

巻頭エッセイ

ぼくは日記を書かない。仕事の中に封じ込めた。あのとき何をしていたか、書いたものを読みながら辿っている。得意の日々もあったが、およそは苦闘、苦悶の日々だった。そうしたとき、これだけはと、執念を燃やして書き続けていた。月刊誌『工業英語』の巻頭言。1974年4月から1987年3月まで、13年間毎月、横組み1300字という制約の中で書いてきた。日本の技術者に言葉を与えよう、という高ぶった気概で書き出した。これを読んでくれれば、時事英語も商業英語も工業英語もおのずと習得できるはずだ、差別も公害も戦も無くなるはずだ――それはだって「魂」の問題じゃないか。そして今読み返してみると、同じことを呼びかけたくなった。翻訳者の皆さん、再掲、お許しのほどを。――「けれども、私は、信じている、この短編集、『晩年』は、年々歳々、いよいよ色濃く、君の眼に、君の胸に浸透していくにちがいないということを。私はこの本一冊を創るためにのみ生れた。」これは太宰治の言葉だが未だに忘れられないでいる。

藤岡記

 
Xeroxに、必要とされねばならぬもの……
藤岡啓介
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必要なものがあっても、金がないから買わないというのでは、たとえ口を糊することはできても、その時代に適わしい精神生活を営むことはできない。衣食住のそれぞれに、常に飢餓状態であったなら、ものを考え、発言し、やがて彼岸へと発つ時には、自分はこれこれのことを此岸に残したといって、莞爾(かんじ)として人に告げることはできない。

必要なもの、欲しいものが日々開発され、生産されている。また、必要とされねばならぬもの、必ず需要があると見込まれているものも、常に考案され、世の中に新しく送り出されている。消費する側にも、生産する側にも、それぞれの思惑があってこの社会は成り立っている。われわれが、生活していくということは、作るものと、それを求めるものの、そのしのぎを削る闘いの最中を走り抜けていくことのように思えるのだが……

1960年のこと、Haloid-Xerox社のJoe Wilson氏は世界を征服する思わぬチャンスを摑んだ。事務用自動機として製品化に成功したばかりの発明品xerographyをテレビで紹介してやろう、というのである。ウイルソン社長が直々に能書きを述べ、機械(914型)の操作を行うことになった。遠くロチェスターの本拠から、夜八時の実演放送に備えて社の首脳、セールス担当がニューヨークへと乗り込んだ。社長の挨拶、説明をなんども練習し、いよいよ機械を操作することになった。

コピー機は軽いうなりをあげて歴史を変えるべき乾式コピーを送り出してきた。なんと! ブラウン管で見守る一同にとって、それは白紙であった。コピーが、あまりにも薄い。原因はすぐと判明した。コピーにとってインクとなる。肝心のtoner(現像剤)が足りないのである。早速にロチェスターから取り寄せなくてはならない。だが、時間はもう午後五時ではないか。

“In a hurry! We go on at eight tonight!” ロチュスターへの電話は、強調符!を百も千も加えたことであったろう。tonerを大事に抱えた男の乗った飛行機は、だが、スムースには到着しなかった。ラガーディアは濃霧で、いかんせん、着陸不能、ニューアークへと旋回したのである。

Xeroxの首脳は、TVスタジオの壁に掛る時計の針が、刻々と八時に近づいていくのを、あぶら汗を流しながら見つめるだけであった、という。正解に、八時五分前、空港から気狂いのようにタクシーを飛ばして、カーボンの粉末tonerを持ったお使いがスタジオに飛び込んできた。

Xeroxは成功した。

その夜、革新的コピーXeroxの実績をブラウン管に見た数百万人の中に、IBMのThomas J. Watson氏もいた。翌朝、ウイルソン氏に電話して共同計画を提案したという。だがXeroxは、IBMが関心を示したことを嬉しいとも、また名誉とも思う、がしかし、われわれは別の途を歩く、と応えた。コピー機はレンタルでセールスされた。故障があれば即刻、無料でサービスすることを約束した。修理サービスの手間は平均25ドルの負担となる。このサービス費削減には、部品の品質向上、互換性の追及以外にない。自社の生産技術への信頼、創造性のあるエンジニア優遇のポリシーの裏付けがあってのことである。

必要とされねばならぬものは、こうして、当然必要とすべき人々の手に、もっとも受入れ易い形で渡っていった。

(SEPTEMBER 1975)