ぼくは日記を書かない。仕事の中に封じ込めた。あのとき何をしていたか、書いたものを読みながら辿っている。得意の日々もあったが、およそは苦闘、苦悶の日々だった。そうしたとき、これだけはと、執念を燃やして書き続けていた。月刊誌『工業英語』の巻頭言。1974年4月から1987年3月まで、13年間毎月、横組み1300字という制約の中で書いてきた。日本の技術者に言葉を与えよう、という高ぶった気概で書き出した。これを読んでくれれば、時事英語も商業英語も工業英語もおのずと習得できるはずだ、差別も公害も戦も無くなるはずだ――それはだって「魂」の問題じゃないか。そして今読み返してみると、同じことを呼びかけたくなった。翻訳者の皆さん、再掲、お許しのほどを。――「けれども、私は、信じている、この短編集、『晩年』は、年々歳々、いよいよ色濃く、君の眼に、君の胸に浸透していくにちがいないということを。私はこの本一冊を創るためにのみ生れた。」これは太宰治の言葉だが未だに忘れられないでいる。
藤岡記
革が化けると書いて靴であるからなのか、「靴」という文字を眺めると、そこになにか意味あり気な妖気がただようのを感じる。文明開化の頃、はじめて靴を目にして驚き、それをはいて困惑した先祖の血が、いまもって騒ぎだすのかも知れないし、あるいは、子供の頃の長靴三銃士の薄気味の悪い漫画や、靴を住いとする矮人の話、シンデレラ、魔法、ホフマン、木靴、纏足といった連想があって、靴にいまなお、親しみと怖れを抱いているのかも知れない。
もっとも、靴にまつわる童話のたぐいは、ほとんど西欧のものなのだから、妖気ただよう、といっても、それは漢字とは無縁のイメージから生まれてくるものであろう。
靴は当然のことに、人間の足の形に合わせて作られている。美しくも思えるが、見ようによっては、ひどく醜くもあるはずだ。靴があるなしを考えたときの便・不便、靴による貧富観、生理に及ぼす快・不快、どこを歩いたか分らない靴、だれが履くのか履いたのか分らない靴――靴ひとつに、人間の情念がたぎり立つかのようにもみえてくる。エラリー・クイーンは靴成金の老婆と、その遺産をねらう子供たちの「事件」を書いたことがある。しかも、童話マザー・グースから靴の家に住む子沢山の小母さんの歌を引いて。靴はものをいうどころか、殺人事件を巻き起こした。
チェコスロバキアの小さな町の、小さな靴屋に、バチャという男がいた。十九世紀の末の頃である。バチャはある時、思い立ってアメリカへ渡った。新世界に立身を求めた彼がアメリカで発見したものは、靴を量産するという画期的な機械と、アメリカ的能率至上の経営学だった。バチャは急ぎヨーロッパに戻った。地球上の3分の二が裸足だ、靴を量産し、売りまくると宣言した。工場を作り、靴を作り、バチャ的経営で管理し、売りさばいた。
社長執務室はエレベーターの中においた。一階から二階へ、二階から四階へと、フロアマネージャーを求めて昇降した。呼びつけるより、この方が時間の無駄がなく能率的だったのだ。赤レンガが好きで、社宅も、市場も、学校も、総赤レンガで作った。社員は給与をバチャから受けとると、翌日から同じバチャが経営する赤レンガの施設を通して、貰った給与の返却を開始するのだった。
バチャは、支店をヨーロッパからインドまで、数多く作った。これはと思う男がいると、「明日からデリーの支配人になりたまえ」などといって、供託金、捌くべき品物と、支配人の権威と、テリトリーを与えた。支配人たちは競い合った。バチャは卸し値には厳しかったが、販売価格は定めなかった。バチャの店の店員が、自分の靴を買うのに、わざわざ値の安い他のバチャの店へ出掛けたという話が伝えられている。
バチャは、その死においても傲然と、あくまでもバチャ的だった。悪天候をものともせず、自家用機で飛び立ち、なんと、靴工場の煙突に衝突してしまった。靴の王様バチャの伝説は広く人口に膾炙し、墓には今なお花が供えられ、そして彼の残した工場は国の代表的な製靴工場(年間150万足)であり、工作機械工場ともなっている。
なお、バチャの時代、アメリカのマツェリンガー(Jan Matzelinger、1847~1883)が俗称Nigger Headという、靴の上部を靴底に縫い合わせる機械(laster)を発明していた。熟練職人が一日かかって50足縫い合わせていたのが、この機械で700足製造されたという。バチャがこの機械を買ったのかどうか、なぜ「ニガーヘッド」と呼ばれたのか、今なお詳らかでない。
(July, 1975)



























