ぼくは日記を書かない。仕事の中に封じ込めた。あのとき何をしていたか、書いたものを読みながら辿っている。得意の日々もあったが、およそは苦闘、苦悶の日々だった。そうしたとき、これだけはと、執念を燃やして書き続けていた。月刊誌『工業英語』の巻頭言。1974年4月から1987年3月まで、13年間毎月、横組み1300字という制約の中で書いてきた。日本の技術者に言葉を与えよう、という高ぶった気概で書き出した。これを読んでくれれば、時事英語も商業英語も工業英語もおのずと習得できるはずだ、差別も公害も戦も無くなるはずだ――それはだって「魂」の問題じゃないか。そして今読み返してみると、同じことを呼びかけたくなった。翻訳者の皆さん、再掲、お許しのほどを。――「けれども、私は、信じている、この短編集、『晩年』は、年々歳々、いよいよ色濃く、君の眼に、君の胸に浸透していくにちがいないということを。私はこの本一冊を創るためにのみ生れた。」これは太宰治の言葉だが未だに忘れられないでいる。
藤岡記
人の世も進歩してくると、いろいろな“親切”がでてくるものである。孤独感に苦しむ老人に友愛電話が公共サービスで制度化されたり、若者たちが人生の目標を失っているとみると、“生きがい感”を与えようではないかと、大人たちが真剣に議論している。“生きがい”とは与えるものでもなければ、与えられるものでもあるまい。いま、ここに紹介するのは、生きがいを自から見い出し、しかも自から人生を“解決”していった勇気ある男の話である。
いまから140年も昔のこと、ヨーロッパからアメリカに写真術が初めて紹介された。橋わたしをしたのは電信機を発明したモールスで、彼がパリでDoguerreotypeの発明家ダグレに出会ったことから、相互にそれぞれの技術をそれぞれの国で普及させる約束をしたものという。モールスはニューヨークに肖像写真のスタジオを開いたが、当時のダグレのwet plate方式の技術では、露光時間が長く、また仕上がりもきれいでなく、好奇心から初めのうちは客がついたが、いつか閉鎖の運命となってしまった。
四半世紀たって、南北戦争の時代となると、マチュウ・ブラディの必死的戦場写真や、オ’サリバンのグランド・キャニオンの風景写真などが現われ、写真術は、アメリカ中の若者たちの憧れの的となった。
この頃、George Eastman(1854~1932年)は、メッセンジャーボーイから銀行の簿記係になるなどして、少年から青年になろうとしていた。彼の夢は、写真術の道具を一式揃え、カメラを持った冒険家になることだった。週給三ドルを稼いだときから営々として貯金をし、数年で五〇〇〇ドルの大金を夢のために貯えたという。
しかし、道具を手に入れ、写真術を習得したイーストマンは、写真家になることを断念した。特別な化学知識を必要とし、しかも手間がかかり携行にも不自由な当時の“写真”をもっと簡易なものに改良することに関心を持ったのである。ダグレの方式を基本的に改め、ゼラチン乾板を開発、さらに透明ロールフィルムという革期的な技術を開発していった。
ロールフィルムができると、これを100コマ連続して撮影できるようにカメラに装填した。カメラは固定焦点レンズ付で“Kodak No.1”と命名された。いまや写真は専門家だけのものではなくなった、アマチュアにも楽に使えますよ、百枚撮り終ったら、カメラごとメーカーへ戻しなさい、現像して送り返します。価格は込みで25ドル。宣伝に使ったスローガンには“You press the button, we do the rest”とあった。
Kodakと名付けた理由は、この言葉が、どの言語においても、何も意味していないからであるという。世界中の辞書にひとつの新しい単語を与えたのだった。新技術開発者の颯爽たるところとでもいおうか。
“生きがい”とは、イーストマンの場合、このような傲慢なまでの自信を持つまでに自己開発していくことであった。
以来、写真はイーストマンの予期した以上に世界に普及し、大衆のものとなっていく。モールスは片手間に写真に手を染め失敗したが、イーストマンは伝説的な資本家となった。七十才を越え、資産一億ドルを持ったが、心気、肉体の衰えから、彼はもはや新しい、“生きがい”、“冒険”を望めなくなった。“My work is done. Why wait?”と書き残して自から銃口の的となった。これほどに、壮烈に生きたエンジニアがいた。
(MARCH 1975)



























