ぼくは日記を書かない。仕事の中に封じ込めた。あのとき何をしていたか、書いたものを読みながら辿っている。得意の日々もあったが、およそは苦闘、苦悶の日々だった。そうしたとき、これだけはと、執念を燃やして書き続けていた。月刊誌『工業英語』の巻頭言。1974年4月から1987年3月まで、13年間毎月、横組み1300字という制約の中で書いてきた。日本の技術者に言葉を与えよう、という高ぶった気概で書き出した。これを読んでくれれば、時事英語も商業英語も工業英語もおのずと習得できるはずだ、差別も公害も戦も無くなるはずだ――それはだって「魂」の問題じゃないか。そして今読み返してみると、同じことを呼びかけたくなった。翻訳者の皆さん、再掲、お許しのほどを。――「けれども、私は、信じている、この短編集、『晩年』は、年々歳々、いよいよ色濃く、君の眼に、君の胸に浸透していくにちがいないということを。私はこの本一冊を創るためにのみ生れた。」これは太宰治の言葉だが未だに忘れられないでいる。
藤岡記
蒸気機関が発明されると、機織は手作業から動力を使った新機械にとって代わった。そして、それは機械の代替だけでなく、生産の様式をも変えた。手機械の職人たちは、一つの蒸気動力源で何十倍もの織機をいっせいに動かす工場に吸収されて、自業の家内工業の“主(あるじ)”たちは、一介の工場労働者へと編入されていった。スコットランドの小さな町で生れたアンドリュー・カーネギーが十三歳のとき、その一家を新大陸のピッツバーグへと移動させた事情も、同じことだった。家業は手機織業であったし、父親は新事態に我慢がならなかったのだから。
しかし、新大陸へ渡っても、父親に新しい才覚はなかった。やっとありついた仕事が綿織工場の職人だった。少年カーネギーも働きに出た。一家の生計に最低月二十五ドルかかるとき、初めは糸巻き工で週一ドル二十セント、ついで蒸気ボイラーの釜たきで、週二ドルを稼いだ。仕事は少年にとって苛酷であった。釜の火が弱くなって蒸気機関が動かなくなれば職人たちのカミナリが落ちてくるし、火をくべすぎて釜を破裂させてしまっては一大事である。圧力計を見守りながら一日の仕事を終えて帰ると、神経がいら立って、夜は夢でうなされたという。蒸気に追われて故郷を棄ててきて、なおもまた蒸気に夢をやぶられるというのだから、皮肉な話である。
当時アメリカでは、カーネギーと同じように、貧しい境遇を体験した人たちの話は数多くあるが、カーネギーが地下のボイラー室で真黒になって雑役をやっていた頃、日給三シリング六ペンス(六十三セント、徒弟の給金はイギリス流で決められていた)で機械工の徒弟奉公に出た少年がいた。
この少年はバラードといって、機械作りに天職の才能があった。コルトの工場で働き、腕ききの職人並みの日給二ドルという賃金を得るまでになったが、他人の作った機械を使うことでは満足できず、自分の機械を作ることに決心した。ブリッジボートに小さな工場を持ってdrill press(ボール盤)を作り始めたのだが、せっかくの独立も悪いことが重なった。南北戦争、リンカーンの暗殺、戦後の不況、社会混乱、そして町を流れるコネチカット河の洪水……。工場は流されてしまった。
カーネギーは、その時身につけた技術はなかったが、頭を働かすことでは並外れて秀れていた。ベンシルバニア鉄道に勤め、動乱を常に有利に転化していき、戦後の一八六八年には投機で年収五万ドルを稼いでいた。一方、腕ききの職人バラードは文なしになり、シカゴで中古機械の修理工となって流れ歩いていたという。これも運命のいたずらなのだろうか。
技術者バラードには、投機の才はなかった。彼はひたすら“to offer only the best equipment you can find for the job(仕事にありつける最良の機械のみを提供する)”と念じ、モットーとしていた。彼はその後再び東部へ戻り、今度は大成功するのだが、その糸口を作ったのは、機械も技術も分らないニコラス・リオンというセ-ルスマンであったという。彼はモーニングを着込み、シルクハットを被り、金冠のついたステッキを持ったダンディで、顧客をバラードの機械に惹きつけ、そしてバラードは、ついに運命の女神に頬笑んでもらうことになる。“信念”も、シルクハットの装いをつければ神の目に触れやすくなるのだろうか。
(NOVEMBER 1974)




























