入門翻訳勝ち抜き道場

巻頭エッセイ

ぼくは日記を書かない。仕事の中に封じ込めた。あのとき何をしていたか、書いたものを読みながら辿っている。得意の日々もあったが、およそは苦闘、苦悶の日々だった。そうしたとき、これだけはと、執念を燃やして書き続けていた。月刊誌『工業英語』の巻頭言。1974年4月から1987年3月まで、13年間毎月、横組み1300字という制約の中で書いてきた。日本の技術者に言葉を与えよう、という高ぶった気概で書き出した。これを読んでくれれば、時事英語も商業英語も工業英語もおのずと習得できるはずだ、差別も公害も戦も無くなるはずだ――それはだって「魂」の問題じゃないか。そして今読み返してみると、同じことを呼びかけたくなった。翻訳者の皆さん、再掲、お許しのほどを。――「けれども、私は、信じている、この短編集、『晩年』は、年々歳々、いよいよ色濃く、君の眼に、君の胸に浸透していくにちがいないということを。私はこの本一冊を創るためにのみ生れた。」これは太宰治の言葉だが未だに忘れられないでいる。

藤岡記

 
Robinson Crusoeのたまご……
藤岡啓介
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政争やら、宗教上の紛争の中で、何度か監禁されたり、破産したりの生き死の目に会った男が、何度目かに監獄を出たとき、ふとした思いつきから小説を書いた。すでに四十九歳。過去に風刺詩や旅行記は著わしていたが、一七一九年に書いた“Robinson Crusoe”は、それらの全てを忘れさせ毀誉褒貶(きよほうへん)はなはだしかった作者の生涯の出来事を追いやり、民族・時代、いや人類の永遠の課題を象徴する名著となった。

たしかに、当時のヨーロッパ人に、はたして実在するか否かさだかでなかった、この極東の国でも、クルーソー、フライデーの物語は、いかなるノーベル賞作家の作品よりも人口に膾炙(かいしゃ)している。

さて、そのDaniel Defoeは『クルーソー』の前後に、もうひとつ、興味ある作品を残している。“A Tour Through the Whole Island of Great Britain”という三巻におよぶ旅行記で、デフォーが見聞したままを克明に記録したものである。炭坑夫の青ざめた顔色に驚いたり、その家族の生計を調べたり、あるいは農村と都市の関わりに鋭い批評眼をもって矛盾を指摘したり、言葉の通じないスコットランドでは通訳を交えて取材したりする。単に見聞記をまとめる、というよりも“I made myself Master of History”とデフォー自身が述べているように、それは後世のフランスのリアリズム作家バルザックが「社会の書記たらん」と宣言したのとまったく同様な姿勢に思える。

こんな話も取材している。プラットフォードの金満家たちが、いかにして財をなしたかの伝聞であるが――ある時、国王ジェームスが、織物を山と積んだ馬車がロンドンに向っているところに出会った。国王は、当時非常に高価であった織物が、通る馬車毎に満載されているのに驚き、だれの馬車であるか訊ねると、すべての馬車がJack of Newbery’sと答えたという。国王は、もしこの話が本当であるなら、かのジャックは国王よりもずっと金持だ、といったという……。

さらに、この下りから、われわれはジャックが二百台余の織機を自工場に持ち、六百人の労働者を使っていたことを知る。十六世紀の初期のことであるというから、ジャックはmanufacturerの鼻祖であったといえよう。

デフォーの旅行記は、われわれに十七世紀から十八世紀にかけてのイギリスの工場事情について、多くの情報を与えてくれるものであるが、この旅行記の、そうした情報価値を最初に見出したのはF・エンゲルスであるらしい。エンゲルスは『イギリスにおける労働者階級の状態』(1845年)を二十四歳のとき著しているが、デフォーの旅行記はその貴重な歴史資料となった。産業革命を経て、資本主義へと開花したイギリスの労働・社会問題を研究したエンゲルスは、この書を書き終えた時は、すでにK.・マルクスと全く同じ見解に到達していたという。三年の後、エンゲルスはマルクスと共に、「一個の怪物がヨーロッパを徘徊している……」と書き出した。

クルーソー氏、いやデフォー氏は、後に怪物と呼ばれるたまごを自分が生み落としたことに気がついていただろうか。

(SEPTEMBER 1974)