ぼくは日記を書かない。仕事の中に封じ込めた。あのとき何をしていたか、書いたものを読みながら辿っている。得意の日々もあったが、およそは苦闘、苦悶の日々だった。そうしたとき、これだけはと、執念を燃やして書き続けていた。月刊誌『工業英語』の巻頭言。1974年4月から1987年3月まで、13年間毎月、横組み1300字という制約の中で書いてきた。日本の技術者に言葉を与えよう、という高ぶった気概で書き出した。これを読んでくれれば、時事英語も商業英語も工業英語もおのずと習得できるはずだ、差別も公害も戦も無くなるはずだ――それはだって「魂」の問題じゃないか。そして今読み返してみると、同じことを呼びかけたくなった。翻訳者の皆さん、再掲、お許しのほどを。――「けれども、私は、信じている、この短編集、『晩年』は、年々歳々、いよいよ色濃く、君の眼に、君の胸に浸透していくにちがいないということを。私はこの本一冊を創るためにのみ生れた。」これは太宰治の言葉だが未だに忘れられないでいる。
藤岡記
加工の精度が今日のミクロン単位にまであがってくるには大変な歴史がある。そのためには、道具(工具・機械)を開発しなくてはならないし、材料も選び、創り出さなくてはならない。機械などで物理的な精度を出すためのメカニズムに必ず使われるのが、ねじと歯車で、その開発の歴史には有名無名、数多くのmechanicsが登場する。これらの男たちは、一定の年季奉公をし、親方の所を巣立って他国へ修業に出かける。自分の使う道具を持ち、腕におぼえの渡り職人journeymanとなるわけだ。
Johann George Bodmer(1786~1864)もその一人。スイスのチューリッヒに生まれ、一人前になってからヨーロッパ各地を、そして海を渡って英国へと仕事に出かけた。モーズレーやブラウン、ホイットニーのような大発明をしたわけではないので、歴史書をみても数行しかふれられていないのだが、その数行を各書に当ってたどると、ボドメルの生涯が浮び上ってくる。
彼は、1830年代に、イングランドのソーホーで、織物機械工場を建てた。自分で発明した大形の正面盤をはじめ、全て彼が設計考案した機械を設備したもので、当時の業界で大きな話題になったものであったが、この工場がボドメルの名を歴史にとどめたのは、彼の機械ではなくて、その機械群をつなぐ設備であったという。世界で最初に天井走行クレーンを考え、加工物の着脱・移動に採用したのもボドメルであった。いまでいう自動化・省力化の技術である。またマンチェスターにいたとき、ねじのピッチを、直径を基準として定める方式も開発した。「Manchester Pitch」として、これも後世に大きな影響を与えた。
英国から大陸に戻ると、冶具を使う工作法や、タップをたてる機械を発明するなど、ここでも大きな仕事をやっている。しかし、この当時のスイスの記録には「チューリッヒ出身マンチェスター在」となっている。ヨハン・ボドメルがジョン・ボドマーとなって英国に名を残しているのは、英国の産業が彼の才能を必要とした(才能が生かけられた)ということと、英国の特許制度が彼に利益をもたらしたからであろう。
名は英国にとどめたが、その血と才能は生国スイスに残した。チューリッヒの若き発明家、工具製造家であるライスハウエルの所で、ボトメルは晩年を過し死んでいった。彼の娘はライスハウエルと結ばれ、その子ゴットフリート・ライスハウエルは、「仕事場」を「工場」へと脱皮させる契機をとらえる。フランス革命の前年1788年にまで由緒をたどれるライスハウエル社に、Journeymanボドメルの血が加えられて、今日の世界的な超精密ねじ研削盤が生みだされたわけである。
音楽や文学の世界ではない、技術・技能の分野での人物系譜があまり研究されていないことをうらみとしたい。
(AUGUST 1974)



























