ぼくは日記を書かない。仕事の中に封じ込めた。あのとき何をしていたか、書いたものを読みながら辿っている。得意の日々もあったが、およそは苦闘、苦悶の日々だった。そうしたとき、これだけはと、執念を燃やして書き続けていた。月刊誌『工業英語』の巻頭言。1974年4月から1987年3月まで、13年間毎月、横組み1300字という制約の中で書いてきた。日本の技術者に言葉を与えよう、という高ぶった気概で書き出した。これを読んでくれれば、時事英語も商業英語も工業英語もおのずと習得できるはずだ、差別も公害も戦も無くなるはずだ――それはだって「魂」の問題じゃないか。そして今読み返してみると、同じことを呼びかけたくなった。翻訳者の皆さん、再掲、お許しのほどを。――「けれども、私は、信じている、この短編集、『晩年』は、年々歳々、いよいよ色濃く、君の眼に、君の胸に浸透していくにちがいないということを。私はこの本一冊を創るためにのみ生れた。」これは太宰治の言葉だが未だに忘れられないでいる。
藤岡記
デュ・ポンといえば、ナイロン靴下から原爆まで作る世界的な化学企業であるが、その創業者Du Pont de Nemours(1771~1834)の経歴が面白い。名の通り、デュ・ポンはフランス人であり、彼の父は経済学者であり政治家でもあった。父親は息子を化学者に育てようと思い、ちょうど大革命の頃であったが、青年デュ・ポンは化学者ラヴォアジェのいる王立火薬工場で化学を学ぶことになる。さらに、父親の持つ印刷所の経営にも参加するが、これは王党支持者デュ・ポン家の工場はけしからぬと、ジャコバン党によって閉鎖されてしまう。
一家はフランスに見切りをつけ、土地探検会社を設立しようと、アメリカはヴァージニアに渡った。フランス貴族の趣味のひとつに狩猟がある。ヴァージニアの広大な天地の間で、青年デュ・ポンももちろん銃をもって獣を追った。ヨーロッパ一流の火薬工場にいるデュ・ポンにとって、鼻持ちならないことがあった。火薬の品質が悪い、狩がともすれば危険を招来する、それにコストも高い。印刷業経営の経験と化学の知識が、デュ・ポンにひとつの決断を与えた。
1802年、ウィルミントンの近くの荒れたままになっていた農場を買いとり、火薬工場を設立した。火薬の需要先はアメリカの歴史であるといってよいだろう。政府からも、毛皮商からも、開拓民からも、南アメリカ諸国からもあった。青年フランス貴族デュ・ポンの会社経営は当時のアメリカ新興企業の中で、ひときわ目立つ色合いを持っていた。経営陣は血族で固め、その一族が同じ領地内に居住した。また、労働者も全て自分の領地内に住まわせた。火薬工場の性質上、また次々と行なう新火薬の開発の秘密保持から、一般から隔離をしたということで、これも必要な手段であったのだろうが、後世、人はデュ・ポンの経営をsemi-feudal basis(半封建的基礎)と呼ぶようになった。
われわれが訪れるアメリカの企業で、二千人の従業員があり、百年余の歴史をもっているところで、労働組合もなければ、創業以来一度も争議を経験したことがないというところが多々ある。それどころか、十五年、二十五年、三十年と、永年勤続者をたたえ表彰しているヨーロッパ以上にヨーロッパ的な会社が数多くある。
アメリカ合衆国がヨーロッパの息子たちの作った国であるのだから、semi-feudal, semi-Europian, semi-foreignとsemiを折衷と解すればことはさらに明らかになる。フランスの十九世紀の作家バルザックは、自分の文学を、当時の流派の中でも「折衷主義」であると宣言した。折衷を行なうものがデュ・ポンであり、バルザックであるならば歴史を創るのだろうが、われわれの場合であると往々として折衷の宣言が自からの存在を主張しえないことになる。安易な折衷ではなく、偉大な折衷の味を噛みしめてみたいものである。
(JULY 1974)




























