ぼくは日記を書かない。仕事の中に封じ込めた。あのとき何をしていたか、書いたものを読みながら辿っている。得意の日々もあったが、およそは苦闘、苦悶の日々だった。そうしたとき、これだけはと、執念を燃やして書き続けていた。月刊誌『工業英語』の巻頭言。1974年4月から1987年3月まで、13年間毎月、横組み1300字という制約の中で書いてきた。日本の技術者に言葉を与えよう、という高ぶった気概で書き出した。これを読んでくれれば、時事英語も商業英語も工業英語もおのずと習得できるはずだ、差別も公害も戦も無くなるはずだ――それはだって「魂」の問題じゃないか。そして今読み返してみると、同じことを呼びかけたくなった。翻訳者の皆さん、再掲、お許しのほどを。――「けれども、私は、信じている、この短編集、『晩年』は、年々歳々、いよいよ色濃く、君の眼に、君の胸に浸透していくにちがいないということを。私はこの本一冊を創るためにのみ生れた。」これは太宰治の言葉だが未だに忘れられないでいる。
藤岡記
19世紀の末葉のこと、ロシヤのキエフ大学で経済学を講じていた、ニコライ・イヴァノヴィッチ・ジーベル教授が、マルクスの『資本論』を研究していて、あるとき、知人に宛てて手紙を書いた。
「ロシヤの農民が工場の釜で料理されてしまわないかぎり、この国では思慮分別は生まれません・・・・・・」と。
経済学を学ぶにしても、近代産業は帝政ロシヤの農奴制の軛(くびき)の中で育ってはいない。産業は西ヨーロッパ、なかでもドイツの資本と技術が導入され、半植民地的な様相の中でしかみることができない。農奴制を廃したからといって、ロシヤを工業化しないことには真の開放なんぞありはしまい。頑迷固陋(がんめいころう)な小作人に悩まされた憤りもあったのかも知れないが、ジーベル教授は真実ロシヤの近代化を憂えたのであろう。
そうしたロシヤと比べると、アメリカの近代工業はもっと明朗な形で、たくましく育ってきたようである。たとえば、モジャイスキーは「空気よりも重い飛行機械」である飛行機を作り、1880年には蒸気機関つき飛行機の特許を申請している。翼、胴体、推進装置、尾翼、着陸装置という現代の航空機の五つの基本構造を持ったアイデアであった。だが、それはロシヤという田舎で試みられた貴族の趣味でしかなかった。ポポフが、イタリーのマルコニーと時を同じくして「電磁波を使って遠距離への通信ができる」発明を行ない成功したが、これも、ヨーロッパには知られなかった。
ロシヤ故に――言葉・文字・文化が異なるためもあるが、科学技術を支える産業が全く発展していなかったこと、ロシヤが西欧のはるか田舎であったが故のことであろう。
アメリカは違った。一介の学生ホイットニーが、たまたま南部へ遊びに行き、綿操機を発明した。インドへ遊学に出掛ける船中で、退屈まぎれに木片を細工して回転機構(連発挙銃)を発明したコルト。これらは即座に企業化されたし、アメリカの歴史を変え、世界の歴史を変えてしまった。
“If you’re not moving ahead you’re slipping behind……you can’t stand still.”
これはアメリカの古い諺で、ある製造家の社史の冒頭に、「われわれはこの言葉をmottoとして努力と人とドルを傾注して今日に至った」とあるが、それが可能であったアメリカは、ロシヤと比べて大いに幸せだったわけである。わが国の近代も、これらふたつの大きな後進国のあり様をみ直すことで、また違った判断が生れるのではあるまいか。
(JUNE 1974)



























