入門翻訳勝ち抜き道場

巻頭エッセイ

ぼくは日記を書かない。仕事の中に封じ込めた。あのとき何をしていたか、書いたものを読みながら辿っている。得意の日々もあったが、およそは苦闘、苦悶の日々だった。そうしたとき、これだけはと、執念を燃やして書き続けていた。月刊誌『工業英語』の巻頭言。1974年4月から1987年3月まで、13年間毎月、横組み1300字という制約の中で書いてきた。日本の技術者に言葉を与えよう、という高ぶった気概で書き出した。これを読んでくれれば、時事英語も商業英語も工業英語もおのずと習得できるはずだ、差別も公害も戦も無くなるはずだ――それはだって「魂」の問題じゃないか。そして今読み返してみると、同じことを呼びかけたくなった。翻訳者の皆さん、再掲、お許しのほどを。――「けれども、私は、信じている、この短編集、『晩年』は、年々歳々、いよいよ色濃く、君の眼に、君の胸に浸透していくにちがいないということを。私はこの本一冊を創るためにのみ生れた。」これは太宰治の言葉だが未だに忘れられないでいる。

藤岡記

 
Watershed(分水嶺)に立つ……
藤岡啓介
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ゲーテは、その自伝的な物語である『詩と真実』の中で、冒頭に、自分の誕生日の星辰を記している。一七四九年八月二十八日正午、すなわちゲーテの生まれた丁度その瞬間、太陽は処女宮の座に位置して最高点に達し、五つの諸惑星の位置は吉兆を示していた、ということである。われわれの二十世紀的な感覚からみれば、それは中世的な宗教・神秘・魔術の呪縛から脱しきれないでいる時代精神のひとつ、とも、あるいは自己誇示が強く、ゲーテの持つ俗物趣味をうかがわせる“いや味”ともとれるが、ともかくも、これはゲーテのことである。

ゲーテならぬ一小市民のわれわれにしても、自己の誕生日を、なにか星占いやら十二支やらにたくして、特別な意味合いを持たせてみたくなる。己れの出生が客観的に意味づけられるとあれば、それぞれに、何にも増していとおしんでいる自分の人生を、いっそうと大事にするのであるから、たとえそれが十三日の金曜日であろうと、仏滅であろうと、当人にとっては、吉・凶いずれにしても自己の存在理由を裏づけるよすがのひとつとなる。有難い。

さて、一月一日は、星の位置がどこにあろうと、宗旨がなんであろうと、だれもが新しく人生の一節を刻む記念すべき日であると大切にし、祝い合う。いつの頃からか、この日が休日となり、せっかくの決意を社会的な行動に移すことができず、われわれの一月一日はただの挨拶に終るきらいがあるが――。

歴史上、この一月一日に、その生涯においてもっとも記念すべき行動に出た人物がある。ヨハネス・ケプラーである。南ドイツのグラーツで数学と天文学を教え、“天文学の継娘”である占星術、予言暦の作成をして口過ぎをしていたケプラーは、ティコ・ブラーエを訪ねてボヘミアのプラハへと旅立ったのである。

ブラーエは、デンマークの貴族で、コペンハーゲンの近くのフヴェーン島という島を領有し、城とも天文台ともつかぬ魔宮を建て、そこで二十年にわたり、当時としてはもっとも精密な器械を使って天体観測を行なっていた。ケプラーはブラーエのもとで自分の天文学を、その観測記録を駆使して完成させようとしたわけであるが、この時、ブラーエはその専制・傲慢な君主ぶりで国を追われ、ボヘミア王の知遇に会いやっとプラハに居を定めた時であり、ケプラーもまた、宗教上の異端問題から、グラーツを追われる立場にあったという。ブラーエが五十三歳、ケプラーは二十九歳であった。

やがてブラーエは死に、観測資料はケプラーのものとなり、八年の歳月を費して資料を分析した結果、ケプラーは惑星の第三法則までを導く。

作家アーサー・ケストラーはケプラーを中世と近代とのWatershed(分水嶺)に立つと位置づけているが、母親が魔女裁判にかけられたり、自らも異端、破門の浮目にあい、占星術で糊口をしのぐなど、たしかに、ケプラーの中世はゲーテのファウスト博士と同じ世界であった。そして一方、彼の近代科学はニュートンの万有引力の法則を導く素地にとなっている。プラハへと旅立った一六〇〇年一月一日は、エベレストに匹敵する分水嶺への第一歩を記した日である。

ちなみに、この年、地動説を唱えていたイタリアのジョルダーノ・ブルーノは、ローマの花の広場で裸のまま焚刑に会っている。わが国では、関ヶ原で新しい時代がつくられた。

(JANUARY 1975)