第21回 ゲストコラム 「翻訳ってどういう仕事なんだろう」 福岡洋一さん
今月は、ゲストとして友人の福岡洋一さんにご登場いただきます。福岡さんとは、ウェブ上の記事の翻訳で長年苦労をともにしてきた間柄です。ノンフィクションの出版翻訳を手がけながらIT系の情報翻訳をこなすという、私とよく似た仕事のスタンスを取る福岡さん。なんとなくものの感じ方も似たところがあって、今回、ご自分のお仕事を振り返っていただいたコラムでも、そうそう、と頷けるところがたくさんありました。(岩坂)

初対面かそれに近い相手と話していて仕事の話題になると、いまだに翻訳って認知度が低いなあと思うことが多い。そりゃどっちかって言えば裏方の仕事だし、石を投げたら当たるほどあっちにもこっちにも翻訳者がいるわけじゃないから、いったいどんな日々を送っているのか普通の人はイメージを描きにくいのだろう。「翻訳に関係のあることなら何でも」という自由なお題をいただいたので、ここでは私自身がこれまでに経験したちょっとちぐはぐなやりとりのなかから、翻訳者と一般の方々との間でちょくちょく起きているのではないかと想像されるものをいくつか紹介しつつ、翻訳の仕事ってどういうものなのか(いまさらだけど)しばし振り返ってみたい。
翻訳をやってますと言ったとき、あまり語学が得意じゃなさそうな人からよく返ってくる反応がこれ。たぶん本人の苦手意識が強くて、「英語」と聞いたとたん、かつて外国人にいきなり道を尋ねられ、しどろもどろになった場面がまざまざと蘇ってくるのだろう。ひょっとしたら隣にいた彼女に、このひとなんだか頼りないわ簡単な道案内もできないのと愛想をつかされ、辛い思いをしたのかもしれない。反射的にそんな方面に思いが飛んでいってしまう人なら、翻訳と通訳の区別など意識からすっかり抜け落ちている。
そういう場面での私は、「いえ、仕事ではとくにしゃべる機会ってないんですよ」とかなんとかもぞもぞ言葉を濁しつつ、だいたい日本語だってそんなにしゃべるほうじゃないし、と心の中で補足する。
会話というのはどうころがっていくかわからない。恋はいつでも初舞台というけれど、完全な予測などできないのはなにも男女間のことに限った話じゃない。相手の出方にとっさに反応するには、やっぱり運動神経が大事だ。
楽器を習うときも、そのことを痛感する。演奏中に間違えたとしても、そのたびに同じところをやり直していたら音楽にならない。曲の進行を維持しつつ、いっしょに演奏している相手の繰り出す音にどれだけ反応できるか、そこにセッションなりアンサンブルなりの醍醐味がある(自分にはまだあまりうまくできないけれど、それはそれとして)。そして、出来が良かろうと悪かろうと、一定の時間が経過すればかならず曲は終わる。
だから、楽器の演奏って翻訳よりは通訳の仕事みたいだと思う。話し言葉は口に出したとたんに消えていくけれど、翻訳なら時間の許す限り、何度でも手直しができる。画家がとりわけ愛着の深い絵をいつまでも手もとに置いて少しずつ筆を入れ続けるように……。もともとせっつかれるのがどうも苦手だった私は、こりゃどうしたって通訳より翻訳のほうが向いているよなと考えた。
しかし、何度も手直しができるというメリットは、裏を返すとなかなか終わりがこないというデメリットでもある。原稿用紙のマス目をこつこつ埋めるしかなかった時代が遠く去って、画面上で何度でも痕跡を残さず挿入や削除ができるようになった現在ならなおのことだ。それが許されているからといって、区切りをつけるのを先送りにし、むやみに手直しばかりしていると、なんだか勢いがそがれると思うときもある。内容にもよるけれど、緻密さよりライブ感が命という文章だってあるじゃないか。
「英語ペラペラ」でなきゃ翻訳ができない、などということはない。でも、流暢に話せるならそのほうがずっといい。会話を訳す機会だってあるだろうし、耳が良くなれば自ずとリズミカルな文章だって書けるはずだから。
皮肉で言っているのでないとすれば、宮仕えの悲哀がこめられているのかもしれない。かなり誤解もありそうだけれど。
たしかに、平日に休もうと思えばなんとかやりくりできるから便利な面はある。役所も銀行も郵便局も楽に行けるし、歯医者で予約するにも選択肢が多い。行楽地はがら空きで、時間帯さえ気をつければ高速道路だってすいすい走れる。煩わしいのは、平日に散髪にいくときまって「今日はお休みですか」と聞かれることくらいだろう。
しかし、仕事はどういうわけか一時に集中しやすい。「降ればどしゃ降り」ってやつだ。といって簡単に他人に丸投げできるような仕事でもない。長いものだと何か月もかかりきりになることだってある。一日何ページときめて予定表を作らないと長丁場はもたないけれど、予定を立てたからといってそのとおり事が運ぶわけでもない。右からきたものを左へ受け流すだけじゃないから当然だ。横のものを縦にするのは(横書きの日本文のことはこの際問わないとして)やっぱり手間がかかる。いい資料が見つからないとか、ある部分の解釈がどうも納得いかないとかで、何日も停滞することがある。たまに図版が続いて予定のページ数をどんどんクリアしながら進むと、それだけでなんだか得した気がして嬉しい。
ヒマなときはヒマなときで、次に備えて技を磨き、アンテナの感度を上げておかなくちゃという気にさせられる。どんな本が売れているか、どんな映画が話題になっているか。iPadで何がどう変わるんだろう。本はこれからもずっと作られ続けるのか……。どんな体験だって無駄にはならん、と言い訳しつつ、いろんなことに手を出してみる。あれっ、このへんはうらやましがられてもいいか。本人はけっこう楽しんでるし。
同感ですねえ。なんとかなりません?
退屈しないからこういう仕事を選んだわけだけれどね。こんな問いを投げかける人はたぶん、一つところにじっとしているのが苦手なのだろう。ひところ流行ったネクラ/ネアカというおそろしく単純な二分法の残滓も感じられる。
そもそも、これまで私は何に面白味を感じてきたのか。時間的にも空間的にも隔てられた一人の著者と向き合い、その言葉に耳を傾け、著者が別の言語を使う人々の間に新たな読者を獲得しようとする、まさにその現場に立ち会うこと。ひとつながりになった言葉の糸をたぐり寄せ、本の中に隠された謎を解き明かし、そこにある世界をまた別の形で構築しなおすこと。面白そうだけれどそのままではよく理解できない言語で書かれた世界に触れたいと思う読者のために、メディア(媒体=媒介=巫女=霊媒)となって著者との橋渡しをすること(そういったことが全部うまくできたとは思わないけれど)。そしてもちろん、苦労の末にようやく書店の棚の一隅を獲得した本のタイトルを眺めるときのささやかな悦びもそこに含まれている(訳した本がどれだけの時間そこにとどまっていられるのかという懸念は、このときなぜか頭に浮かばない)。
どこかへ出かけたから楽しい、誰かと会ったから退屈しない、とは限らない。たぶん、書かれた言葉の中に広い世界を見出して、そこで遊ぶ行為に早くからなじんでしまったせいなのだろう。
自室にこもってゲームの中のバーチャルな世界に耽溺するのと、ある意味では似ている。目の前にあるテクストにのめり込むあまり、それをどのような形で具体化し世に投げかけるか、そのために人間関係をどう築いていくかといった現実的な方面で、いくらか手薄になりやすい傾向は確かにあると思う。
だから、無理解にも思える先のような言葉をかけられても、さほど反発するには及ばない。ありがたく受け取っておこう。それに、この仕事は案外肉体的にきつくて、長年ろくに運動もしないで続けているといつかあちこちにガタがくる。そうなると心ゆくまで遊べないのだから。
「退屈しない?」の同類だが、この決めつけはかなりひどい。喧嘩売ってるのかと言いたくなるけれど、ご当人は別に悪意があるわけでもないようで、不用意な言葉をつい口に出してしまったという様子。
イメージだけで出てきた言葉とはいえ、前項で書いたように日々の仕事にのめりこんで全体的な戦略になかなか目が向かないことへの指摘だと思えば、傾聴に値する……かもしれない。
永江朗氏が書いていたけれど、ふだんは本など読まず、むしろ「本を読んでいるようなヤツらは嫌い」と反発する人々が実際にいる(『書いて稼ぐ技術』平凡社新書)ことを、頭の片隅に置いておくほうがいい。本好きとしてはなかなか想像しがたいことではあるけれど。
親しい芸術家から投げかけられた質問だけれど、これは本質的な問いで、いまもって私には答えがよく分からない。たぶん、創造性をどう定義するかによるのだと思う。
原文が存在するという点で、翻訳はオリジナルの文章とは違う。翻訳者は何もないところに何かを生み出すわけではなく、原文とまったく無関係のことを好き勝手に書く自由は与えられていない。だから、創造性を狭い意味での創作についてだけ認めるのならば、その意味での創造性は必要ないということになる。
しかし現在では、たとえ創作物であろうと、それ以外のどんな作品からも切り離された形で成立するわけではないという考え方がむしろ普通なのではないか。一つのテクストは、著者が意図しようとしまいと、それ以外のあらゆるテクストの相互参照の網目の間に浮かんでいる。テクストのさまざまに異なる読みを可能にする基盤として働くのも、このような相互参照の網目にちがいない。
原文と翻訳の関係も、二つのテクストの結びつきはきわめて緊密だが、相互参照関係の一種と考えてよさそうだ。提示された主題に基づいて華麗な変奏を展開したバッハの作品に創造性を見出すとすれば、(そこまで高度ではないかもしれないが)翻訳にもそれに似た意味での創造性を認めてもよいと思う。私が感じる面白味のかなりの部分は、きっとそこからきているのだろうから。
福岡洋一さんの主な訳書
ケネス・フィーダー『幻想の古代史 上・下』楽工社 2009年
ピーター・ジェイムズ、ニック・ソープ『古代文明の謎はどこまで解けたか (1)~(3)』 太田出版 2002-2004年
ケヴィン・ケリー『複雑系を超えて』アスキー 1999年(共訳)
ニコラス・ネグロポンテ『ビーイング・デジタル』アスキー 1995年
ウィリアム・J・ミッチェル『リコンフィギュアード・アイ』アスキー 1994年
(第4巻155号)




























