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入門翻訳勝ち抜き道場

岩坂彰の部屋

第17回 〈feeling〉 と〈感情〉のあいだ

岩坂彰
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月刊『言語』。毎号特集が組まれ、2007年4月号では「翻訳新世紀 解釈と越境のダイナミズム」として翻訳の問題が取り上げられました。休刊前の最終号には、寄稿者からの休刊を惜しむ声があふれていましたが……

このところ唯一定期購読していた雑誌『言語』(大修館書店)が今年いっぱいで休刊するそうです。好きだったんだけどなあ。いわゆる「言語学」の研究ばっかりじゃなくて、毎月いろいろな角度から言語を捉える特集があって、思わぬところで目から鱗を落としてもらったものです。この夏の特集「裁判ことばの言語学」(裁判員制度の開始に合わせた特集ですね)では、言語学雑誌として予想される「法廷用語」の話題だけじゃなくて、「面通し」手続きの信頼性の分析、なんていう記事があったりして。そういう周辺的なところに言葉の真実への手がかりがあるんですよね。

こういうことを面白がる人が少なくなったというわけではないと思うんです。ただ、情報源が多すぎて、何でもかんでも読んでいる時間なんかない、というのが、少なくとも私の実情ですし、『言語』の休刊もそういうことの結果なんでしょう。言語の世界に多面的に光をあてるという精神だけは受け継いで、このコラムを続けていきたいと思います。

今回は〈feeling〉という言葉にまつわる話です。

傲慢は「感情」か

昭和の時代、「フィーリング」という言葉が流行ったことがありました。ふぃーーりーーん、うぉーうぉーうぉーふぃーーりーーん(ハイ・ファイ・セットです)。この言葉は、〈feeling〉の訳語としての〈感覚〉や〈感情〉とは少し違う、まさに曰く言い難い〈感じ〉を表していました。この種のカタカナ言葉というのは、それまでに存在した相当する漢語とはちょっと異なったニュアンスを表すために使われ、そして使い古されていくものですが、〈feeling〉という言葉は、はじめから曰く言い難いものを表現しているのではないかと、最近つくづく思っています。

「心」がらみのテキストを扱うことの多い私にとって、〈feeling〉やその周辺の言葉、たとえば〈感覚〉を表すsense, sensation, perception、〈感情〉を表すemotion, affect, affection, mood, sentimentといった言葉の処理 (※1) や、個々の感情、たとえばanger, grief, happiness (※2) , distress, shame, irritationなどの訳は、何かと悩みの種です。

さしあたり、たとえば〈feeling〉の訳語として「感覚」を選ぶか「感情」を選ぶかという判断は、それぞれの文脈を考えればそれほど迷うことはありません。irritatedをケースバイケースで訳すのであれば、その都度「苛立っている」のか「焦っている」のか「いても立ってもいられない」のか、自然に言葉が浮かんできます(このあたりが翻訳をしていて楽しいところです)。ところが、訳しているテキストが、感情そのものについての考察だったりすると、その言葉をキーワードとして統一的に訳さなければならず、その都度違う訳をしていたら筋が通らなくなる、ということがあります。

〈feeling of anger〉なら、「怒り」という感情です。〈feeling of déjà vu〉なら「既視感」という感覚でしょう。ところが、この両方を包含する〈feeling〉について著者が論じていたらどうでしょう。あるいは、〈feeling of arrogance〉とは? 「傲慢な気持ち」とは言えますが、これは「感情」でしょうか。そこまで含める英語の〈feeling〉とは、いったい何なのかと考えてしまいます。

感情と感覚を包含する〈feeling〉をどう呼ぶかというレベルの話ならば、こういったことは翻訳では日常的にぶつかる困難で、たとえばsiblingが兄弟か姉妹かというのと同じような問題です。個々のケースでは具体的に性別を調べればいいですし、総称するときには「きょうだい」なんていうひらがなを使ったりします (※3) 。〈feeling〉についても、それなりに逃げ道は考えられます(最初に挙げた昭和の事情がありますから、カタカナの「フィーリング」は使いにくいですけれども)。

「感じられるもの」と「感じている経験」

しかし〈feeling〉には、言葉がカバーする範囲の単なるズレという以上の問題が、まさに「曰く言い難い」ものが、そこに潜んでいるように思えてなりません。神経学者のアントニオ・ダマシオがLooking for Spinoza (※4) という本の中に書いている脚注は、興味深いものです。

The principal meaning of the word feeling refers to some variant of the experience of pain or pleasure as it occurs in emotions and related phenomena; another frequent meaning refers to experiences such as touch as when we appreciate the shape or texure of an object. Throughout this book, unless otherwise specified, the term feeling is always used in its principal meaning.

〈feeling〉という言葉は、まず第一に、情動やそれに関連する現象の中で生じる何らかの種類の快・不快の経験を指す。もう一つ、よく使われる意味として、私たちが物体の形や質感を認識するときなどに感じる触感のような経験を指すものがある。本書では、とくに断らないかぎり、〈feeling〉という語は常に第一の主要な意味で用いる。(岩坂訳)

感情の基本を〈快・不快〉に置くのは心理学の伝統的な見方で、pain or pleasureはあえて「快・不快」としてあります。いずれにせよ、第一文が感情を、第二文が感覚を指していることは明らかで、英語話者も〈feeling〉の中身を感覚的なものと感情的なものに区別していることが分かります。また、ダマシオがわざわざこのような注記を付けているということは、〈feeling〉という言葉が日常的には曖昧に使われていることを示唆しています。実際、精神医学の専門書では、〈emotion〉や〈sensation〉、 〈perception〉は使われても、〈feeling〉という言葉はめったに現れません。

もう一つ、ダマシオが、感情についても感覚についても、〈feeling〉を「経験」であるとしている点に要注目です。実はダマシオは他の箇所で、〈emotion〉と〈feeling〉を定義して、〈emotion〉は身体状態の変化であり、〈feeling〉はその変化のモニタリング・プロセスであるとし、なおかつ、この定義はオーソドックスなものではないと断っています。オーソドックスではないということは、一般にこのような使い分けはされていないということですが (※5) 、それでもこの見方は示唆的です。〈feeling〉とは、基本がfeelである以上、感じる人がいて、感じられるものがある。そこには、何かを感じている意識的な経験がある。ところが、日本語で〈感情〉、あるいは〈気持ち〉というとき、そのような主客(subject-object)関係はないように思うのです。このあたりが、「曰く言い難い」違和感の根源ではないかなと、なんとなく〈感じて〉います (※6)

翻訳スタンスの選択

これは、言葉の使い方の文化的な差異というようなものではなくて、日常の生活体験そのもののあり方の相違です。精神療法のセッションの描写で、"How do you feel...?"というセラピストの問いかけを「……をどのように感じていますか」などと訳したら翻訳としてはいまいちで、「……してどんな感じ(気持ち)ですか」とするのが普通でしょうし、実際に日本の臨床現場でもそのような言葉遣いがなされているはずです。しかし、たとえば認知療法では、クライエントが自分の感情(気分)を意識的につかまえることが治療の第一歩になります。ここで「自分が……を感じる」(I feel...)というsubjectiveな側面が認知療法にとって不可欠なものなのか、それとも「いま……な気分です」というだけで十分なのかは、私には分かりかねます。それは、日本の精神科医に、日本の臨床現場を理論化する中で確認していっていただかなければなりません。しかし、翻訳によってことがらが変わってしまっている可能性がありますし、逆に言語のレベルで(表面的な言葉のレベルではなく)正しく翻訳しても、ことがらそのものにおいて、つまり治療効果において意味がない、ということもあるかもしれません。

先日、日本認知療法/行動療法学会で、ロンドン大学のポール・サルコフスキス教授がイギリスの精神療法普及制度を紹介する講演を拝聴したのですが、日本での実施にあたって、イギリスの制度をtranslationしてはならないと、さかんに強調されていました。たしかに社会基盤として医療制度がまったく異なるわけですからそのまま適用できないのは当然のことで、改革のエッセンスを取り出して日本社会に適用していく必要があるのですが、それは日本語で言えば「翻訳」なんだけどなあと思いながら聴いていました。

現実の翻訳の局面では、このように言語を越えた文化的相違の深みまで降りていったとしても、それを翻訳に表すかどうかというのはまた別問題です。そこにある〈feeling〉をどう訳すかという判断は、結局のところ、読者に日常的なレベルで読んでもらうのか、理論的なレベルで読んでもらうのかというスタンスの判断です。日常的なレベルならば、日本語としてできるだけ違和感のない処理をします。理論を読んでもらうのならば、逆に英語的文脈を意識してもらう必要がありますから、極端な話、原語で「feeling」と書いてもいいくらいです。普通に考えれば、ダマシオがやっているように、あるいは今私がやっているように、背景を説明する注記を付けるということになるでしょうか。

『アーロン・T・ベック 認知療法の成立と展開』(マージョリー・E・ワイスハー、大野裕監訳、岩坂彰・定延由紀訳、創元社)

ここからいきなり広告モードになりますが、今月出版された訳書『アーロン・T・ベック 認知療法の成立と展開』は、精神療法を学ぼうという人向けレベルの原書でありながら、一般読者も対象にしようという、非常に難しい翻訳となりました。認知療法の創始者、アーロン・ベックの伝記から始まるこの本は、入門レベルの認知療法紹介にもなりますし、行動療法や、各種の他の「認知的」セラピーとの関係など、精神医学史としてもかなり踏み込んだ内容になっています。訳語については意味を砕くことなく専門用語をそのまま使い、最低限の注を付け、表現的には少し柔らかめにするという対応になりましたが、実は最初の段階でそのスタンスが固まっておらず、かなり時間をかけて訳をやりなおすはめになりました。監訳の大野裕先生と共訳の定延由紀さん、そして編集者さまには、余計なご苦労をかけてしまいました。この場を借りてお詫び申し上げます。

そういうわけで、最初の翻訳自体は『ロボトミスト』より前に済ませてあったのですが、出版がいままでずれこんでしまいました。ただ、精神医学史として見たときに、これはちょうど『ロボトミスト』の対になる話で、並行して作業できたのは、私にとって実りの多い結果となりました(ロボトミーを推進したウォルター・フリーマンは、精神分析と対立する生物学的な精神医学を突き詰め、ベックは精神分析を実証しようとする中から精神分析を捨て、心理学的な理論化を進めました。そして奇しくも二人は、40年の時を隔てて同じフィラデルフィア総合病院でキャリアの初期を過ごしているのです)。興味のある方は、合わせてご一読ください。

2009年11月30日号