The Oxford Book of Children’s Storiesシリーズより出題中
入門翻訳勝ち抜き道場

岩坂彰の部屋

第11回 ヘルメスの覚悟

岩坂彰
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ヘルメス
ヘルメス神。16世紀イタリアの彫刻をスケッチしてみました。この像では靴を履かずに足から直接翼が生えています。星占いで使う水星のマークは、この杖(ケリュケイオン)を図案化したものです。ヘルメスは交易の神でもありますから、商業学校の校章にもよくこの杖が使われますね。

翻訳の神様ってご存じですか? 神様みたいな天才的翻訳者ということではなくて、翻訳という仕事の守護神です。これがちゃーんといるんですね。ギリシア神話のヘルメス。ローマ神話だとメルクリウス(マーキュリー)ですが、やっぱりヘルメスとかヘルメースのほうが感じが出ます。

 ヘルメスは神々の間の伝令役で、よく翼の付いた帽子や靴を身につけた姿で描かれます。言葉を伝える伝令ということで、コミュニケーション(翻訳を含めて)を司る神と見なされるようになったんでしょう。星占いでも、ヘルメスの神格が投影された水星は、通信、交通、交易を表す星ということになっています。

というか、水星という星は内惑星でいつも太陽の前後をうろうろしていますから、そこから逆にこの星が伝令ヘルメスに割り当てられたのかもしれません。太陽系の惑星はみんなギリシア・ローマ神話の神様が対応していますが、真っ赤な火星に戦いの神アレス(マーズ)が投影されたり、美しく輝く金星にアフロディーテ(ヴィーナス)が充てられたりしたのと同じで、こういうのはごく自然な対応づけという感じがしますね。

星占いによると、水星が支配する双子座の人は翻訳家に向いているということになっています。真偽のほどは不明です。

それはともかく。古代ギリシア語で‘Ερμης(ヘルメース)から派生した‘ερμηνευειν(ヘルメーネウエイン)という動詞は、そういうわけで、通訳する、解釈するという意味で使われるようになります。これが後のhermeneutics、つまり解釈学の語源です。

解釈学という名前に馴染みのない方も多いと思いますが、もともとはギリシア古典文学や聖書の理解のために中世ヨーロッパで生まれた解釈の方法論で、それが近世に至って、一般的なテキスト解釈の学問となります。さらに現代においては、おもにドイツの哲学者によって、一つの哲学分野ともなっています。

部分と全体

テキストの解釈の問題というのは、翻訳の問題でもあります。ですから、解釈学が行ってきた考察は、翻訳に引き寄せて考えることができます。たとえば、翻訳をやっている人にはすぐにお分かりいただけると思いますが、「分かっていないと分からない」ということがあります。もう少していねいに言うと、「テキストの一部を理解するには全体を理解していなければならないし、テキストの全体を理解するには部分を理解していかなければならない」という事態のことです。これを「解釈学的循環」と呼びます。じゃあいつまで経っても何も分からないではないか、ということになりますが、実際には少しずつ理解を拡げていくことで、部分も全体も分かってくるものですよね。

大学の哲学の先生は、らせん階段を上がっていくようなものだと説明してくださったように思います。一回りしてくると、同じ方向の風景が見えてくるけれども、同じようでありながら、前のときより少し高くなっていて遠くまで見える。哲学的な言葉遣いで、「理解を成り立たせている背景」というような含みをもつ「地平」という言い方がありますが、このらせん階段のたとえだとイメージしやすい気がします。理解を高めると、地平が広がるわけです(「地平」というのは地平線のことではなくて、地平線上に見える視野のすべてとお考えください)。

原文中に知らない単語が出てきたら、とりあえず辞書で意味を調べます。いくつかの意味の中で、文脈に合うもの(つまり全体の趣旨に即したもの)を選び出したり、そのような表現を考え出したりします。しかし、その単語の意味を知らない段階で考えていた全体の趣旨というのはあくまで暫定的なものであって、この単語の意味を理解の中に溶かし込んだ段階で、全体の趣旨をさらに明確に把握できるようになります。私たちがテキストを解釈していくのは、このような循環的な作業の繰り返しです。

以上はあくまで理論上の話ですけど、実践に役立つ注意点として挙げるなら、一つ調べたら、それで「全体の模様」がどう変わるかということをちょっと意識する、ということでしょうか。翻訳をするときは(というか本を読むときは)、誰でも無意識のうちにそうしているんですが、つい怠けてしまうということもあります。とくに全体図が大きすぎて頭の中に維持するのがしんどいとか。行き詰まったときには、部分と全体の相互的な関係を思い出してみてください。

ヘルメスにだって立場がある

ところでヘルメスは、父親ゼウスの命令を他の神々に伝えに行きます。たとえば「ちょいとカリュプソはんのとこ行って、ええかげんオデュッセウスのこと自由にしたれやって言うといて~」とお使いを頼まれれば、ほいほいと出かけて行って「わてもほんまは、こないなこと言いに来たなかったんやけどな、うちのおとん、言い出したらきかんのや」とかなんとか適当に話をつけます(『オデュッセイア』第5歌)。ここで、ヘルメスはゼウスの命令を自分の立場で解釈して伝えています。

近代の解釈学が主張したことは、この例で言えば、メッセージはゼウスの言葉そのものの中にあるのではなく、ヘルメスによる解釈の中にあるということでした。つまり、テキストの意味を考えるにあたっては、テキストだけを見ていてはだめで、読み手の理解を問題にしなければならないということです。ヘルメスは録音機ではない、とでもいいましょうか。まあ、ヘルメスは人間ではありませんけれど、人間の理解というのは、そういうあり方をしているということですね。私もそう思います。

テキスト解釈は、正しく読めば正しい意味が分かるなんていう単純な話ではありません。これは翻訳者の意識としてとても大切なことで、上に書いた循環のことなども含めて、私たちは積極的に、主体的に原文にぶつかっていかなければいけないのだと思います。ヘルメスにはヘルメスの立場があるように、自分の立場を持って、しかもその立場を意識しながら、少しずつ著者と自分の理解を重ね合わせていく。それが、具体的には「調べ物」という行為なのです。

これは無限に続く作業で、けっして著者と私たちの地平がぴったりと重なり合うことはありません。なぜなら、背負っている文化が違うからこそ、翻訳をしているのですから。(でも現実問題としてはどこかで見切りをつけなければいけませんよね。そこは実際的な判断をする必要があります。具体的には「目的」に即した判断です。これについては以前に書きましたのでご参照ください。)

解釈学も、哲学的な解釈学の段階に入ってくると、ただテキストの読み取り解釈を問題にするだけではなく、人間が世界全般を理解するあり方ですとか、人間の存在のあり方そのものを問題にするようになります。学生時代に読んだこのあたりの哲学書は、まるで禅問答のような謎めいた言葉が並んで、私などには、それこそいくら部分を積み重ねても全体が理解できなかったわけですが、そんな中で一つだけ、素直に受け取れるハイデガーの言葉を紹介して、今回の哲学まがいのお話を終わりにしましょう。「肝心なのは、循環から抜け出すことではなく、循環の中へ正しい仕方で入り込むことである。」

2009年2月9日号