入門翻訳勝ち抜き道場

エッセイ:翻訳の現場から

吉川幸次郎氏のこと
詩人と解説者のことばが渾然となり、つむぎ出される不思議な世界……

山岡 朋子
[ profile ]

吉川幸次郎
「日本京都大学名誉教授吉川幸次郎于
1975年3月30日至4月1日率领
日本学术文化访华使节团到桂林游览。
WEBサイト「世界名人与桂林」から。

外国作品を解説するには、語学の知識に加え、それが書かれたときの著者の状況、時代背景なども視野に入れる必要がある。だが、それだけでよいのなら、多くの文献に目を通して知識を蓄えれば誰でもある程度の内容のものを書ける、と言ったら不遜に過ぎるだろうか。今までに読んだ漢詩の本はごくごく僅かだが、その中で吉川幸次郎のものがひときわ輝いて感じられる。吉川さんの手にかかると、どの詩人もその作品も新たな命を得たように生き生きとしてくるのだ。時代も民族も違うのに、何の違和感もなく心の中に入ってくる。書き方のせいもあるかもしれない。淡々と解説するかと思うと、詩人が乗り移ったように、一人称で熱く語りかけてもくる。詩人と解説者のことばが渾然となり、つむぎ出される不思議な世界。他の誰にも真似のできない世界だ。

読み下し文では漢詩の本当の良さがわからないと聞いたことがある。たしかに平仄(ひょうそく)や韻脚などは中国語の理解がなければ苦しいだろうだが、細かい規則を知らなくても、日本語として味わうだけでも漢詩は十分に楽しめると思う。原文の読み方に決まりはあっても、読み下し文は解説者によって微妙に異なる。その人ならではの表現のしかた、受け止め方、感情移入の度合いの違いによるのだ。吉川さんの読み下し文を特徴づけているのは、詩人と作品に対する洞察の深さと言えるかもしれない。情感をくみ取り、それにふさわしい日本語を与えていく。たとえば陶淵明の四言の長詩「帰鳥」に「翼翼帰鳥」という一行があるが、吉川さんはこれを「翼(しず)かに翼かに帰りゆく鳥は」としている。翼という字にしずかという意味はない。だが、夕暮れどきに鳥がゆったり羽ばたきつつねぐらへと帰ってゆく情景を思い浮かべてみると、しずかにしずかにという表現がしっくりくる。文字に込められた意味を吟味したうえで、ルビで読ませる。詩人と心をひとつにしていなければできない大胆な手法だ。淵明はまた、群れから離れ、ねぐらを持たぬ孤独な鳥も詠っている。その前半部、

栖栖失群鳥  栖栖(せいせい)として群に失(はな)れし鳥の
日暮猶独飛  日暮れて猶お独り飛ぶ
徘徊無定止  徘徊(さまよ)いて定まれる止(やど)りも無く
夜夜声転悲  夜な夜な声は転(い)よいよ悲しむ
厲響思清遠  (するど)き響(こえ)の思いは清く遠く
去来何依依  去りつ来たりつして何(な)ど依依(したわ)しげなる

依依とはなごり惜しく離れるに忍びないさま等を指す言葉だが、これを「したわしげなる」と読ませるところなども見事としか言いようがない。読み下し文といえども、ここまでくるとれっきとした翻訳である。

淵明は政治に関わった後に隠居し、農夫として生涯を送った。一見平静さを漂わせたその作品群の中に、吉川さんは詩人の苦悩を感じとり、時代背景をひもときつつ、心の内を解き明かしていく。詩の中に飛ぶ鳥がしばしば登場し、自由、平和、幸福の象徴として扱われているが、詩人の心が必ずしも詩句そのままに穏やかでないことは、上記の詩からもうかがい知れよう。宋の詩人蘇東坡は淵明を愛し、晩年は彼の詩のほとんどに和作を行っている。海南島に流されていた頃のことだ。政治に翻弄され続けた蘇東坡は、淵明の詩の中に、自分の思いと相通じるものを感じとっていたのかもしれない。

漢詩に惹かれたそもそものきっかけは、吉川さんの『新唐詩選』(岩波新書)だった。李白も杜甫もこの本で初めて知った。中でも杜甫の記述がすばらしく、格別の思いが行間からにじみ出ているように感じた。そこまでの思いは残念ながら李白にも、『宋詩概説』(岩波文庫)の蘇東坡にも、そして『陶淵明伝』(新潮文庫)の陶淵明にも感じられない。『陶淵明伝』の解説で一海知義氏が吉川さんの文章を引用している。「私にとっての古典は、何といっても杜甫である。うわきな私は、ときどき他の詩人にむかって放浪をこころみる。近ごろは、陶淵明を、だいぶ苦労して読み、書いた。淵明は杜甫よりも、心のゆたかな、人間としてはより面白い人間であったように思える。しかし私には、淵明の心のゆたかさが、かえってにが手なのである」「私は杜甫を読むためにこの世に生まれて来たのであることをねがう」やはりそうだったのか。だいぶ苦労して、というのはおそらく本音だろう。人との相性は誰にもある。しかしながら、たとえ本人に苦手意識があろうと、浮気しているとの気持ちが働いていようと、格別の思いに欠けていようと、豊かな知識とたぐいまれな感情移入の才とに裏打ちされた、自由闊達な文章によって、いにしえの中国の詩人たちがなんともいえない魅力を放ちはじめるという事実に変わりはない。そして杜甫。残念ながら、吉川さんがこよなく愛した詩人について、私はまだ『新唐詩選』でしか読んだことがない。だが、代表的な作品十五首を扱ったわずか五十四頁の文章でも、杜甫に対する吉川さんのまなざしはあくまで優しく、きめ細やかな心遣いが伝わってくる。

読み下し文も翻訳だと先に書いた。すぐれた翻訳には訳者の人間性が感じられる。それを初めて私に気づかせてくれたのが吉川幸次郎なのである。