入門翻訳勝ち抜き道場

エッセイ:翻訳の現場から

二十一グラム』とたかがラーメン

ぼくならこんな作品にはしないだろう……この世から消え去りたいとおもっている人が多くいる……けれども、ぼくだったら、やはり……、
山本 耕
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21 grams
21 grams”(IMDbより)

いつの頃からだろうか。映画をみなくなっていた。映画館に足を運ばなくなってから久しいのも確かだが、それだけでなく、家でも、ビデオを借りたり、テレビの放映につきあったりすることもなくなっている。たぶん、週末が平日の仕事の疲れをとるだけの休息となってしまい、二時間以上ものあいだ、テレビの前に座ることさえ億劫になっているからなのかもしれない。

それが、ついこのあいだ、ふとしたことから『21グラム』という映画をみた。たまたま体調が良かったからなのかもしれないが、冒頭部分からの息もつかせぬ展開と完成度の高い内容のせいで、ついつい最後までみてしまった。

21グラムというのは、心臓の重さのことで、これは、ヒトのいのちについての話なのだ。作品自体は、二〇〇三年のものだから、知っている人も多いだろう。監督は、アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ。主演は、 ショーン・ペン 、 ナオミ・ワッツ 、 ベニチオ・デル・トロの三人。これは、三人の絶望の淵に立たされた人間の話なのだ。事故で夫とふたりの娘を失った若い女性(ナオミ・ワッツ)。心臓に重い病気を抱え、移植をしなければ余命幾ばくもないという講師(ショーン・ペン)。そして彼女の夫とふたりの娘の命を奪った男(ベニチオ・デル・トロ)。お互いまったく無関係な三人が、ひとつの事故を契機に、絶望の淵へと転げ落ちてゆく、そういう話なのだ。

まだみていない人もいるとおもうので、話の中身を詳しく話すのはよそうとおもうのだが、ぼくがこの話で特に気になったのは、次のふたつの点だった。

ひとつは、世間的にまったく無関係な三人の話を巧みにつなぎ合わせ、ひとつのまとまった作品に仕立て上げた、その筋立ての見事さだ。事故という接点があるのだから、三人をひとつの話の中に入れることは簡単とおもうかもしれないが、そうでもない。通常、移植のドナー側が被提供者と会うことはないし、事故の加害者と被害者家族が直接に関わることもそうないだろう。ましてや移植の被提供者と事故の加害者の交流は皆無といっていい。

事実、この話で三人が一堂に会するのはクライマックスの場面のみであって、それ以外は、どちらかというと別々に話が展開する。そんな別々の話を紡ぎあげて、まるで死の直前にみる一瞬の走馬燈のように仕立てた技は、まさに天才的だ。ぼくは、この作品に限らず、最近の作品では世界が広がったような気がする。現代の複雑な社会が投影されているかのようで、知り合いを超えてつながる人々の関係を描く作品が増えているようにおもう。

もうひとつは、この三人が抱える絶望の種類だ。興味深いことに、この三人は、誰からも見放されたために絶望しているのではないのだ。三人には、それぞれを見守り助けてくれる家族や恋人、仲間がいる。だから、この三人の感じている絶望は、個人的なものといえる。けれども、そうであれば、社会的な絶望とは何だというのだろう———。おそらく、それは社会的に認知されている、ということなのだろう。そして、そんなふうに認められた絶望には、制度的な援助や、周囲の助けが用意されているということなのかもしれない。

それに対して、理解されていない悲しみや苦しみの方には、そういったケアが行き及ばないもので、そのため、人知れぬ絶望に思い悩む人がいるのではないかとおもうのだ。だから、この話のように、自分が助かるためには、誰かが死ぬのを待たなければならない人間が感じるやりきれなさや、突然家族を失ったときに感じる本当の悲しみや、人生をやり直そうとしていた矢先に、ふとしたことから人を殺めてしまった人間の苦しみなどは、結局、個人的なものだというのだろう。

ところで、ぼくが、この話を懐かしい気持ちでみたといったら、不思議におもうだろうか。

実は、ぼくにも、そんな絶望を感じたときがあった。それはまだ大学に残っていた頃のことで、研究と大学での人間関係に悩んでいた頃のことだった。ぼくにとって、そのまま大学に残ることは、自分の信念を曲げることになり、許されないことであった。けれども、すでに大学に残ってからかなりの時間が経ってしまっていたので、他に選択肢もなかった。用意された道は不毛で、しかも他に道もなかったのだから、結局、道を降りて、道なき道を進むしかなかったのだけれども、当時は、そんな勇気もなかったので、人知れぬ苦しみを味わっていたというわけなのだ。今でも当時の記録に触れるときには胸騒ぎがする。

その頃、ぼくはできるだけにぎやかなところにゆくのを避けていたのだが、ある時、何かの用事で久しぶりに街中にでることがあって、その帰りに一件の真新しいラーメン屋を見つけた。それ以前は、ラーメン巡りと称して、いろんなラーメン屋を食べ歩いていたこともあったので、そのとき、ふと、寄ってみようかと、そんな気になったのだ。

そのラーメン屋は、カウンターと椅子しかないような店で、客が十人も入ればいいような店だった。カウンターの後ろに店主がひとり立っていて、客は、ぼくの他に数人いるくらいで、休日の夕方にしては空いていた。そうして、でてきたラーメンは、何の変哲もない醤油ラーメンだった。透き通った汁、細い麺、シンプルな具。ぼくは、一口食べて「なるほど」とおもったのを覚えている。

しばらくラーメンをすすっていると、店の柱にかけられていた電話が鳴った。店主は電話にでると、何も言わずに電話の相手の話を聞いていた。

すると突然、それまでずっと相手の話を聞いていた店主が「たかがラーメンじゃないか」と言った。ぼくが思わず顔をあげて店主をみると、店主はニヤニヤと笑っていた。

ぼくは、最初、自分が食べているラーメンが「たかが」と言われたような気がして、怒りを覚えた。そんな気持ちで作られたものを食べさせられたのかと。これは金と時間を無駄にしたなと。

けれども、すこし経ってから、そうでもないかもしれないとおもった。自分でもそうだが、誰かが精魂込めて何かに取り組んでいて、でも、それがうまくいっていなかったら、「たかが」と言って励ましたくなるときがある。そう、たかがラーメンだからって。

そして、ふと、この世の中には、そういう「たかが」であふれているのかもしれないとおもった。人知れず悩んで、本人は真剣なのだけれど、でも、誰にも理解されないような、そんなものでこの世はあふれているのではないかと。そして、その頃からだったようにおもう。ぼく自身も、自分のこともそうおもえるようになったのは。

だからだろうか、『二十一グラム』をみて、ぼくがおもったのは、ぼくならこんな作品にはしないだろうということだった。ぼくは、今の社会、この話の登場人物のように、人知れぬ悩みに苦しんで、自殺を考えている人が多くいるのではないかとおもう。学校や、職場で、誰にも理解されず、日々思い悩み、この世から消え去りたいとおもっている人が多くいるのではないかとおもう。そして、そんなふうに、実際に苦しんでいる人には、結局、わかってもらえないことなのかもしれないともおもう。けれども、ぼくだったら、やはり、こう言いたいような気がする。———そう、「たかが人生じゃないか」って。