入門翻訳勝ち抜き道場

エッセイ:翻訳の現場から

希望と夢:カルトからの脱出、心から、わたしは翻訳者を志したことを喜ぶ

田中利子
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OUT OF THE COCOON
OUT OF THE COCOON
A Young Woman's Courageous Flight
from the Grip of a Religious Cult
A memoir by Brenda Lee
(Robert D. Reed、2006)

筆者の田中さんとはそう長い付き合いではない。あるとき、バックに何冊も本を詰め込んで拙宅を訪れた田中さんは、机の上に数冊の本を取り出した。カルト関係の本は読んだこともないのでなにもアドバイスできないな、と思いながら彼女の顔を見たら、本気だった。田中さんはカルトに囚われ、そこから必死の脱出をしたという。呪縛から逃れた後の何年間か、普通の本や新聞が読めなかった、読んでも理解しなかった、という。その空白の時間を経て、少女時代の夢である翻訳者への道を歩みだした、その道のりの中で、一冊の本にめぐり会った、これを世に出したい、ぜひに、ぜひに、大勢の人たちに読んでもらいたい。

そして話をきくうちに、この本に出会った彼女の感動が、まるで自分のことのように思えた。これは紹介したい、カルトの呪縛に、後遺症に悩む人々だけでない、われわれ、カルトに縁のない者たちも、読まなければならない。本誌の「おすすめの図書」で紹介するのもよいが、これは田中さんの魂の叫びでもある。あえて、「エッセイ」に組み込んでみた。もう、田中さんとは何年も付き合ってきたような思いでいる——藤岡

表紙は明るい。少女の掌に繭(まゆ)からの抜け出たばかりの蝶が休んでいる。穏やかな情景だが、冒頭第一章で読者はどぎもを抜かれる。それはこのようにして始まる。

——その晩、帰宅した私は怒りにくれ、絶望し、混乱していた。ガン・キャビネットからリボルバーを取り出すと、我を失ったようにじっくりとその拳銃を眺めた。もしかして自殺するつもりなのだろうか?ソファーに腰を下ろして銃を撫でながら、何が問題なのかを改めて考えた。願いはただひとつ、自由になって普通の子供のように生活したい、それだけだ。ついに私は決心を固めた。問題を作り出した張本人たちを始末してしまおう。それで全ては解決する。

廊下に続くドアは開いていた。音を立てないように調理台から肉切り包丁を取り、二つの武器を抱えたまま地下室へと進んでいく。それから正確に狙いを定め、銃の引き金を引いた。弾丸が父親の頭を貫通し、肉片が辺りに飛び散った。母親がヒステリックな悲鳴をあげるなか、父親がドサッとその場に崩れ落ちた。私はすかさず隠し持っていた包丁を抜き、近づいてきた母親の心臓めがけ、ブスリと深く突き刺した。

これは著者ブレンダが十二歳の時に書いた「世界のなかでひとりぼっち」という短編の一部です。担任の教師はこの短編に「A」の評価をくれましたが、彼女が切望していたのは良い成績などではなく、心の痛みを理解して癒してくれる大人の存在でした。本当は助けを求めて悲痛な叫び声をあげていたのです。「私は、父を殺害するためにもっともらしい理由をつけました。より慈悲深い死を与えるためには、拳銃で撃ち殺すしかないのだと。本当は父を殺したくはありませんでした——父のことは尊敬していたのです——しかし殺さなければ、父は限りなく苦しむだろうと思いました(中略)しかし、母のためには肉切り包丁を選びました——母が私に与えた痛みを味わうのは当然の報いだからです。出血多量にもがき苦しみながら死に絶えていくのです。」(文中のゴシック体は原文のまま)

豊かな自然に囲まれたペンシルヴェニア州の農場で、両親、年齢の離れた兄と姉と共に、のびのびと育ったブレンダの生活は、ある日を境に一転してしまいます。ブレンダが九歳のある夏の日にエホバの証人の信者が家を訪ねてきました。日曜学校の教師だった母がこの宗教の虜となり、数ヵ月後に洗礼を受けると、兄と姉は迷わず母に続き、洗礼の意味さえ理解していなかったブレンダも不本意ながら洗礼を受けさせられます。こうして父以外は全員エホバの証人の信者となってしまったのです。

その後の家族の生活は、集会や勉強会、そして訪問伝道活動が最優先となり、誕生日やクリスマスを祝うことも信者でない友人と口を利くことも禁じられ、次第に温かい家庭が崩壊していきます。また信者であることが知れ渡ると、ブレンダは教師やクラスメートから身体的にも精神的にも虐めを受けるようになります。誰にも理解してもらえない辛さと寂しさをブレンダは詩を書くことと過食で満たしていました。

——私はわずか九歳にして、身の回りの敵対的な世界は容易には変えられないけれど、自分の内なる世界は変えることが出来るのだと学びました。ちょうどさなぎのように、私は蝶に変身する日を待ち望んでいたのです。孤独を感じたとき、落ち込んだとき、そして絶望の淵に立たされたときでさえも、私はペンを取って心を開きました。私にとって書くことはただの癒しではなく、まさに救いだったのです。

高校を卒業したら、伯母のいるコロラド州で暮らすという夢と希望を持ち続けたブレンダは、脱出のために用意周到に計画を練ってそのときを待ちました。そして十八歳になると家出同然に家族とエホバの証人に別れを告げますが、その結果、父以外の家族から「二度と口をきかない」と知らされます。

——生きるか死ぬか、愛するか憎むか、育むか壊すか、そのどちらを選択するかは、その人が希望と夢を持っているかにかかってきます。希望と夢こそが人に前向きな考えを起こさせ、人間の生存にかかせない錨となるのです。(中略)本書の中でこの希望と夢という言葉は常に大文字で表記され、いたるところに登場します。私がいかにこの二つの言葉にしがみついて生きてきたか、おわかりいただけるでしょう。

多感な少女時代をカルト宗教に奪われていたため、ブレンダのその後の人生には様々な試練が立ちはだかります。健全な男女関係の築き方を学んでこなかったため、選んだ結婚相手はアルコールと薬物の依存症でした。ブレンダは家計を支えるためにフルタイムで働き、二人の間に産まれた息子を事実上ひとりで育てることになります。しかも息子のデレクはベビーシッターや保育士から度重なる虐待を受けていたことがわかりました。しかし、いかなる状況下においても「希望と夢」を捨てなかったブレンダは、多くの試練を乗り越えて本来の自分を取り戻し、たくましく生きていきます。現在は最愛の息子デレクとともに暮らし、「コクーン(繭)」というニューズレターを発行して、エホバを脱会した元信者を支援し続けています。父を除く家族とは未だに話せない状況ですが、今ブレンダは「カルトの人格」に形成されてしまった母を許し、自分を産み育ててくれたことに深く感謝しています。

以上はブレンダ・リーの物語ですが、私の物語も語った方がいいでしょう。

今から二十年ほど前ですが、私自身も学生時代にあるキリスト教系のカルト集団に勧誘を受け、三年弱その団体に所属した後、自主脱会した経歴を持っています。脱会後もマインドコントロールの呪縛から逃れられずに社会復帰に非常な困難を強いられ、辛い体験をしました。

脱会はしたものの、自分がいかにして操られ「カルトの人格」に変えられてしまったのかを理解できずにいましたが、そんなとき「マインドコントロールの恐怖」(スティーブン・ハッサン、浅見定雄訳、恒友出版、1993)に出会えたおかげで、苦しみの中に一筋の光を見出し、徐々に本来の自分を取り戻していくことができました。(同書のなかでエホバの証人も、私の所属していた団体も名指しで批判されています。)

その後、私はカルトの脱会者向けに書かれた英語の論文や書籍を沢山読み、有益な情報を知りえることができましたが、同時に邦訳されているものの少なさに驚きました。残念ながら現在でも欧米で発表されている良質な書籍や論文のうち邦訳されたものはごく一部しかありません。この情報を日本語で伝えねばならないとう「使命感」めいたものが芽生え始めたのもこの頃からです。

翻訳にたずさわり勉強を続けながら、いつかは真剣にカルトの問題に取り組んでいきたいと考えていたところ、今回ネットで検索し購入した本の中で「キラリ」と光っていたのが本書でした。

重苦しくなりがちな経験談を、時に突き放した視点からユーモアさえ交えて披露し、文体にも悲壮感が漂っていないのが本書の特徴です。本書が処女作でありながら、著者は並々ならぬ文章力で、一気に読者を惹きつけます。自身の経験を包み隠さず語ることで、破壊的カルトの脱会者のみならず、家庭崩壊、虐待、依存症、絶望感、罪悪感に苦しむ人々、そして見捨てられたと感じている人にも手を差し伸べ、希望と励ましを与える書物に仕上がっています。カルト宗教とは無縁の一般の読者にも充分思い当たるところがあるはずです。そしてたとえ「繭」に囚われた状況においても、決して希望と夢を諦めなかった著者の勇気に感動を覚えることでしょう。私は、翻訳者を志したことは間違っていなかったと確信しています、その喜びに満ち満ちています。ブレンダに勇気をもらって訪れた藤岡編集長が、とりあえず『WEBマガジン 出版翻訳』で紹介しよう、と励ましてくれました。いくつかの出版社に本書の出版を訴えています。ブレンダのすばらしい笑顔を多くの人々に知ってもらいたい一心でいます。

付記:

本書は米国アマゾンの書評で31レビュー(2007年2月現在)平均五つ星を獲得しています。発売後、著者がラジオ出演や講演会を精力的に行い、カルト宗教の恐ろしさを啓発し、誰もがその犠牲になる可能性を訴え続けているので、著者の言動とともに本書はさらに注目を集めていくと思われます。

本書を読んで、カルト宗教には、二世、三世の信者が存在する現実を改めて思い知らされました。そして彼らが成長する過程で、経験せざるを得ない苦境と葛藤が切実に伝わってきました。疑うことを知らず(または疑いつつも、著者の父親のように家庭内の平和を維持するため)親の信仰を受け入れ続ける子供たちがいるのです。その一方で、著者のように反旗を翻し、自由を得た結果、家族と引き裂かれてしまった子供たちも存在しています。 

カルトの実態を暴く告発本や、脱会者向けのカウンセリング本などはあっても、二世信者である当事者が全てをさらけ出した自叙伝は、調べた限り日本ではまだ出版されていないようです。最近では、「オウム真理教」の元教祖松本死刑囚の四女が「家族や教団の呪縛から逃れたい」とジャーナリストの江川紹子氏に後見人を依頼したことが話題を呼んでおり、この問題に対する社会的関心も高まっていると思われます。