The Oxford Book of Children’s Storiesシリーズより出題中
入門翻訳勝ち抜き道場

エッセイ:翻訳の現場から

通訳と翻訳――どちらも英語の“現場”ではあるけれど

柴谷ジェーン
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通訳と翻訳の両方の現場を経験して、いろんな事がありました。顔から火が出るような、ある意味で事件の方が多いのですが、思いつくままに記してみました。

初めての通訳現場は人工臓器の会議で、会期は一週間だった。全体会議が終わり控えに回った私は、部長に「忙しくなれば、ご連絡下さい。即刻現場に飛んで参ります」と挨拶し、京都国際会議場から神戸の自宅へと戻った。

通訳デビュー

当時は実家にいたのだが、翌朝八時半、部長からの電話でたたき起こされた。「すぐに一週間の宿泊準備をして、会議場まで来てほしい。四条河原町からタクシー乗って構わないから」との連絡を受け、まだ半分は寝ぼけ眼のままであたふたと荷造りをしていると、驚いたのは、部長の電話を取り次いだ母であった。それも、そのはずである。会った事もなければ声を聞くのも初めての中年男性からの電話で、娘の私が大慌てで荷造りして出て行こうとしていたのだから。

通訳デビューは、こうして慌ただしく荷造りをしたことから始まった。

その会議中は、無我夢中で過ぎてしまった感が残っているが、それでも一週間の「流れ」を掴めたことだけが収穫になった。通訳教室では学べない実践の有り難さだった。先輩通訳は、さぞかし呆れているかと思ったが、話を聞いてみると学校の後輩であった。さらには父親同士が友人関係というおまけ付き。

初仕事のストレスはこの先輩と共通の知人たちを話題にすることで解消し、互いのドジや欠点は二の次になってしまったことが昨日のことのように思い出される。二人の住んでいた最寄りの駅が隣駅ということもあり、会期が終わった時は一緒に夜食をとり、先輩通訳の最寄り駅についたのが深夜。そこから彼女の家までタクシーで帰り、先輩の運転で家まで送ってもらうという始末だった。

会議出席者の夫人たちを京都の市内観光にエスコートした時のこと。コースは、参加者から希望のあった詩仙堂をスタートとする曼殊院、修学院離宮、赤山禅院までの一日散策ルートだった。小雨模様の中、詩仙堂を散策した後、京人参や聖護院蕪など京野菜の畑を見ると、京人参の赤さや蕪の大きさに一同歓声をあげていた。曼殊院も紅葉を見ながらのどかに見物。昼食時、さすがに女性たちのこと、途中で見聞きした京野菜だけでなく昼食メニューの素材にも興味を示して、出てきた昼食の素材から作り方、お膳の配置に至るまで、質問攻めだった。

そのうち、参加者の一人から「氷が欲しい」との要望があったので、注文した。さらに話に花を咲かせていると、コーラが人数分運ばれてくるではないですか。別な参加者から、「コーラは要らないからペプシにして欲しい」と言われ、そんなことは言っていないと、慌てて確認すると、お店の人が「氷」を「コーラ」に聞き間違えられていたことが判明。危うくソフトドリンク代を上乗せされるところだった。しかも、ガイドのおごりで…。

あるメーカーへの視察団付き通訳で北米の中西部、穀倉地帯の農場へ行った時のこと。全般的な説明のあと、工場内見学に……。ついてくれた担当者が“At nursery here, ……”と説明を始めた途端、反射的に「こちらの保育所では…」と始めてしまった。nurseryがここでは「苗床」であることに気が付いた。現場は見渡す限りの農場で、地平線の彼方までトウモロコシが風に吹かれて太陽の恵みを受けているようなところ。

日本の団員からも「こんな所に『保育所』があるんですか?」と確認される始末。それでも「はい。先方の担当者がそういっていますから」とシラを切って、最後まで通訳をやり通した事がある。

こんな時、翻訳ならば「保育所」を削除して「苗床」に置き換えられるのだが、一度口から出た言葉は戻らない。今思い出しても恥ずかしい、駆け出しの頃の大失敗だった。その時の日本側の会社からは、二度と仕事が回ってくることはなかった。

スポーツ大会の本部付け通訳を担当した際のこと。大会の性質上、世界各国からの参加があった。イギリス、アメリカ、オーストラリア、ニュージーランド、台湾、香港、インドネシア、マレーシア、インド、中東諸国……と、現場は訛りの総合商社・見本市といった状況。入り乱れる訛りの多様性に戸惑ったのは初日の午前中一時間余りで、香港出身審判長の日本側審判員へのクレーム処理に始まり、食事の際には豚肉や牛肉のチェック、女性陣からは化粧水の入手方法……と様々な要望を処理し続けた一週間。

大会が終了する頃には同じく本部付けだったイギリス人通訳者から「これだけ訛りが混在している大会で、立派に任務を果たしましたね。私でも大変だったのに……」とのコメントを、参加者からもお礼のカードをそれぞれ頂いた。この大会以降、どんな訛りでも対処する自信を深める事ができ、今も忘れられない大会となっている。

翻訳の機会が

難聴者が集う世界難聴者会議が、四年に一度開かれている。その通訳でフィンランドのヘルシンキに行った時のこと。登録も終わり夜の歓迎宴会の席上で、素敵な女性に声をかけられた。これが、のちに日本語版を翻訳出版することになる書籍の原著者であり、世界難聴者連盟の会長(当時)との最初の出会いだった。

会議通訳自体は会議場スタッフの皆さんがとても素敵な方々だったので、滞りなく仕事ができた。日本では天然記念物の雷鳥のハーブ焼きを初め、鹿や熊、トナカイなど珍しい食材に巡り会った。また、会期終了後に、日帰りでエストニアのタリンを訪れられたのも良い経験になった。

日本に戻ってからお世話になった招聘団体やヘルシンキを始めとする多くの方々に挨拶を済ませ、お目にかかった女性の著書を入手した。内容は、難聴者に対する様々な生活のヒントが記載されている書籍だったので、アメリカの難聴者の暮らし方を日本の難聴者の皆様にも知って頂きたいという想いから、一年ほどかけて第一稿を仕上げた。

この間、藤岡啓介先生の鎌倉翻訳勉強会に縁あってお世話になったものの、毎月の課題に対する先生のコメントは、いつも厳しいもので、日本語での表現能力の低さを痛感していた。勉強会を離れて神楽坂でお目にかかったとき、「良質の日本語を数多く読みなさい」といわれたが、この言葉は今も深く私の心に残っている。なかなか師の意向に添えない現状を反省してはいるのだが……。といって、一朝一夕には気の利いた言葉が浮かぶはずもなく、一晩で何十冊も読破できる訳でもない。これまでの読書の質と量を反省し、今も変わらず日々精進の毎日を送っている。

それでも、翻訳した原稿を出版し、日本で暮らす聴覚障害者関係の方々にも読んで頂きたいという気持ちは、次第に希望から切なる願いになっていた。気持ちだけは膨らんでいたが、出版社も分からなければ、企画書の書き方も分からない。困り果てて藤岡先生に相談したところ、障害者関係の書籍を多く出している明石書店に持ち込んではどうか、とのご意見を頂戴した。企画書にも加筆修正して頂いたら、相変わらずコメントだらけになってしまった。

先生のアドバイスもあって仕上げた原稿と企画書を、明石書店さんに電話で「難聴者関係の書籍を翻訳したが是非とも明石書店さんから出版したいので原稿を送付させて頂きたい」と連絡して送ったまでは良かったが、一ヶ月が過ぎ、二ヶ月が経とうとする頃になっても何の音沙汰もない。どうしたものか、と思っていると、「不確かなことを一つずつ確かな事にしていくのが出版のプロセス」と師匠は一言。

そこで、電話で問い合わせると、担当者がどうやら忘れられていたようで、折角ですが今回は見合わせる、との返事。これが午前十時半頃だったか。ガックリと気持ちが落ち込んでしまい、師に没になった連絡を入れるのがやっとのことで、あとはふて寝よろしく過ごしていたのだが、夕方四時過ぎの事、明石書店取締役の方から電話が入った。

断られた話のはず。一体何ごと?と、寄り目で心の中で叫びながら電話に出てみると「午前中は、うちの社員が失礼しました。難聴者関係の概要書は今まで手がけたことがありませんから、是非出版させて下さい。先ほどメールで連絡しようとしたのですが、メールが返ってきます。メールアドレスですが○○※□◇△ですか?つきましては、一度お目にかかって打ち合わせを……」とのことだった。

急転直下、案件が採択されたのです。問い合わせのあったメールアドレスは誤っていたため送信されなくて当然。余りのどんでん返しに頭の頂から出る声でメールの不備を心から詫びた。そして、企画を採択して頂いたことに心から感謝し、電話を切った。即刻、師匠に連絡を入れ(メールだったか電話だったかは記憶にない)、企画が採択されたことを報告。ふてくされていたのが180度どころか540度ほどの気分転換になっていたが、待ち受けている苦難のことなど知る由もなく、ただ企画を取り上げてもらったことだけが嬉しかった。

初めての打ち合わせで明石書店さんに出向いた際は、土地勘のない所だったので余裕を見て出かけると、早く着きすぎて喫茶店で時間調整。何度も深呼吸をしていた。

難聴者関係といっても耳の構造から難聴の原因、難聴の受入れ方から人工内耳や補聴器に始まり、薬剤などの影響、旅行に出かける際のヒント、と話題が多岐に渡っていたので監修をつけよう、という話になり、ある団体に監修依頼したものの、「評価は低いですよ」「監修料は安すぎますね」などと平気で言ってくる人たち。いろんな事があり、その団体は監修をおりてしまった。

監修が不要なほどに私自身に専門的な知識があればいいのだが、そんな訳では毛頭ない状態。せっかく企画を拾ってもらっていたのにとんでもない状況になった。「企画をおります。今までの作業に対する対価をお支払い下さい」と言われたらどうしようか、と戦々恐々としていたが、明石書店さんが新たに監修をして下さる先生を見つけて下さり、書店の担当者と編集者の三人で打ち合わせをした時には企画を取り上げて頂いてから一年ほど経っていた。

師匠からも「監修者と喧嘩するとは大人気ない!」と一喝され、修行が足りなかったのは日本語だけではなかった、と猛省、今後の教訓が一つ増えた。

企画を取り上げてもらってから二度目の正月が過ぎ、初校から再校、念校と初めての経験がって、五月の風が爽やかな頃に素敵な表紙デザインが決まった。紆余曲折はあったものの初めての翻訳書は、二〇〇七年六月六日に無事に世の中に出た。契約書を取り交わしたが、契約書に記された印税は大阪と東京を行き来する打ち合わせにかかる経費で飛んでしまっていた。しかし、そのうち重版になるかもしれない、などと呑気に構えている。

通訳現場を経験してから一冊の翻訳書を出版した今、どちらも英語の現場ではあるけれど、ずいぶんと性格が異なる仕事だと改めて痛感している。耳から口へと反射的に伝えて、その質を問われることもなく時間が来れば業務が終わる通訳に対し、翻訳者、編集者、社内校正者の目を通し、推敲を重ね不明な点を明確にしながら一冊の本にしていくのが翻訳である。同じ日本語を扱う職業でもアナウンサーと新聞記者が異なるように、通訳者はアナウンサーに、翻訳者は新聞記者に、それぞれ通じる部分がある。

日本の同時通訳の草分け的な存在で二〇〇七年七月に九十五歳の天寿を全うされた西山千先生は、一九六九年七月、アポロ11号月面着陸時の同時通訳を担当されたことで有名だが、日本翻訳家協会の理事長も務めておられた。その西山先生が生前「話し手の意図を相手の言葉で表現するのが通訳ですから、バイリンガルだけではダメです。社会や文化を理解したバイカルチャーにならなくてはね」と、よくおっしゃっていたと、同時代を過ごされた同時通訳者である松増美先生や小松達也先生から聞いている。二十一世紀となった今、バイリンガルからバイカルチャーへ、そしてマルチカルチャーへと、自己を高めていくことが通訳や翻訳という言葉に携わる者に必要なのだろうと身に染みる毎日だが、一番に修行しなければならないのは、日本語の向上と日本社会で生きる術なのかもしれない。