The Oxford Book of Children’s Storiesシリーズより出題中
入門翻訳勝ち抜き道場

エッセイ:翻訳の現場から

翻訳の限界はどこにある?

長崎祐子
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昨年から、女性誌でインタビューの仕事をさせてもらっている。

ファッション誌ということで、アメリカ、フランス、イタリアなど、各国から来日したクリエイターから話を聞き、文章に起こす。取材は1時間程度と短いけれど、個性豊かなクリエイターと話すのはとても楽しい。

インタビューには英語を使う。

ただし、誰とでも英語で済ませられるわけではない。専門分野、細かい感情のディテールをクリエイターが語るには、やはり母国語が一番!

ということで、母国語が英語以外の場合、通訳をお願いすることになる。

その時に気になるのが

—この通訳さんは、どこまで的確に翻訳してくれているの?

というところ。

「こんなに長く話しているのに、翻訳するとそれだけ?」と感じることもある。

しかし、文句は言えない。通訳がいなければ、意思の疎通さえままならないかもしれないのだ。とにかく、こちらは通訳を信じるしかない。

年末には、TVで字幕付きの報道ドキュメントを観た。ボリビアの今を伝える政治ドキュメント。キューバについて調べている私にとって、この南米の情報はとても参考になった。

けれど、これも誰かが翻訳した状態。実際スペイン語で何を言っているかわからないから、イマイチ信頼はできない・・・。翻訳者の言葉のセンス次第では、まったく違う内容にねじ曲がってしまうだろう。

日露同時通訳者であり、エッセイストでもある米原万里さんの著書『不実な美女か 貞淑な醜女か』に、通訳・翻訳に関する面白いことが書いてあった。

訳の原文に対する忠実さで“貞淑度”をはかり、訳文の良さを“女性の容姿”に例えると、翻訳は

「貞淑な美女」

「不実な美女」

「貞淑な醜女」

「不実な醜女」

に分類できるという。

原文にも忠実、かつ素晴らしい翻訳は「貞淑な美女」。逆に、原文に忠実でなく、訳もボロボロの場合は「不実な醜女」になる。

ただ、人間が間に入って言葉を変えること自体に、限界がある気がしないでもない。文化上、説明が困難なこともある。

たとえば、先日あるアメリカ人にインタビューした時のこと。

「あなたは“いのち(lives)”をどう考えますか?」と説明を求めると、どこか的を得ない答えが返ってくる……それもそのはず、日本人が感覚的に理解している「いのち」という言葉と、彼らの考える「いのち」には大きな差があったから。

どう説明すれば、こちらの意図をきちんと理解してもらえるのかな、と唸った。

そういう意味で、翻訳は結局「不実な美女」「貞淑な醜女」のどちらかになるような気がする。

書籍の翻訳者は、どういう立場で訳をするのだろう。

前後の文脈から判断して訳を決めるのかもしれないが、著者の思想、バックグラウンドをきちんと把握していなければ、誤訳になることもありえるような?

安い翻訳料でそこまでのこだわりを求めるのは少々気の毒かもしれないけれど、とっても気になって仕方がない。