入門翻訳勝ち抜き道場

エッセイ:翻訳の現場から

日本にいながら英国生活 ベビーシッター奮闘記 その2

村松静枝
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◆選ばれてしまった

面接から数日後、先輩から連絡があった。私が選ばれたというのだ。どういうわけかミセス・ベイカーは私を気にいってくれたようだ。憧れのベビーシッターができる! でもあの子供とはうまくやっていけるのだろうか…。知らせをきいたとたん、嬉しさと不安がないまぜになった。けれどせっかく選んでもらったのだから、辞退なんてしたくない。若さの勢いもあったのだろう。私はその日のうちに電話で両親に、これからイギリス人家族と一緒に暮らすこと、アパートを引き払うことなどを伝えた。母は、「外人さんと一緒に住むんだったら、これからこっちから電話できなくなっちゃうねえ、まあ、迷惑かけないようにしっかりやりなさい」と、不安そうながらも、私の決心に反対はしなかった。アパートの大家さんにも部屋を出ることを告げた。小学生の息子さんを持つ母親である大家さんは、私の一方的な契約の中途解除のお願いにもかかわらず、「すごいじゃない、なかなかできることじゃないからがんばって!」と励ましてくれたうえ、違約金も何も請求しなかった。

採用決定から十日ほどたったある土曜日、私はベイカー家へと引っ越した。引越しといっても炊事道具などは実家に送り返し、所持品は身の回りの衣類と教科書類とテレビ、ラジカセぐらいで簡単なものだった。引越し当日は、面接時に会えなかったご主人のミスター・ベイカーも在宅で、奥さん同様の気さくな笑顔で迎えてくれた。非常に長身で髪はブラウンのくりくり巻き毛、おちゃめな感じの瞳もブラウン。一目見た印象は「髪の毛をふさふさにしたフィル・コリンズ」だった。(フィル・コリンズは当時すでに頭寂しかった)

住み始めてしばらくしてから気づいたのだが、シャーロットは髪や目の色はお母さんから受け継いでいたが、くりくりと丸い目の形と鼻のつくりはお父さんからもらったようだった。

◆ベビーシッター初日

荷物を片付けると、今夜さっそく夫婦で出かけるからシャーロットをよろしく、とのこと。内心「ええー、今日から? いきなりあの子と二人きりなの?」とおののきつつ、"I see."とひきつった笑顔で答えた。夫婦が出かける夜までには時間があった。とにかくシャーロットと一緒に時間を過ごしてみようと思い、広いリビングにちょこんと座って何やら一人で遊んでいる彼女に声をかけた。「こんにちは。いっしょに遊ぼう。何して遊びたい?」

便宜上日本語で書いているが、彼女との会話も、ベイカーさん夫婦との会話もすべて英語だった。シャーロットはまだ人見知りしているのか私の顔を見ずにもじもじしている。しかし「追いかけっこ…」と小さな声で答えてくれた。家の中で追いかけっこなんて、と思われるかもしれないが、この家には充分な空間があった。何しろリビングが広いし、リビングと続いている玄関ホールも畳を七~八枚並べたくらいの奥行きがあった。リビングには大きな三人掛けソファのほか一人掛けのソファが二つ。そして奥には来客用のフォーマルなダイニング・テーブルと椅子が六脚置かれていたが、その周りにはたっぷりスペースがあった。

二人きりの追いかけっこが始まった。さっきまでもじもじしていたシャーロットがいきなり「キャーッ」と金切り声をあげて走り出し、私は後ろを追いかけ始めた。むこうは本気で走っているが、こちらはさすがに加減して早歩きでついていく。あ、シャーロットが笑っている。打ちとけてくれそうだ。適当なところで追いついて「つかまえたー」と言って彼女の肩をつかむとまた「キャーッ」と叫ぶ。今度は私がシャーロットに追われる番だ。彼女が追いつけるよう後ろを振り向きながら逃げ、ある程度のところで彼女につかまえられるようにした。私の腰の辺りにすがりついてシャーロットが叫ぶ。「つかまえたー!」私を見上げる青い瞳はきらきらと輝き、丸いほっぺたはりんごのように紅潮していた。初めて会った日からの不安はこうしてたった五分ほどで消し飛んだ。

やがて夕食の時間。ベイカー一家との初めての食事だ。何を話そう。少しどきどきしながらダイニング・キッチンへ入っていき、テーブルについて驚いた。大きなお皿の上にあるのは薄いハム二枚と一口大の茹でたジャガイモとニンジンが三~四個、そしてサヤインゲンが二~三本。これが一人分の食事だった。なんて少ないんだろう! ベイカー夫妻のお皿も私とたいして変わらない。シャーロットの食事はこれらを細切れにしたものだった。夫妻はこれに塩やこしょうをかけて食べ始めた。私も同じようにして食べた。あっというまに食べ終わった。もちろんこれで満腹になるはずはない。しかしこれ以外には何もないのだからあきらめるしかない。

「これから夕ご飯はいつもこうなのか…」内心途方に暮れながら、食べ終わった食器を流しのシンクに持っていく。ミセス・ベイカーが食器を洗うのを見てまたもや愕然とした。シンクの中にはプラスチックの洗いおけがあり、彼女はそこに食器をすべて入れると蛇口をひねりお湯を注いだ。そして台所用洗剤をさっとふりかけてスポンジで軽くなぜると、そのままシンク横の水切りかごに置いた。ゆ、ゆすがないの? 目が点になった。彼女はそうやって次々とお皿もナイフもフォークも水切りかごに入れていった。見ていられない。

「お皿は私が洗います」考えるより先にことばが出た。

「あら、いいのよ」

「いえ、やります」

「そう? じゃあお願いするわ。ありがとう」

こうして夕食の後片付けは私の担当になった。洗剤がついたままの食器で食べることを思えば、まったく苦にならなかった。洗う物といってもせいぜい三~四人分のお皿とナイフ、フォーク、そして調理に使う鍋ぐらいだ。あっというまに終わってしまう。私は心ゆくまで食器をゆすいで水きりかごにふせていった。ああ気持ちいい。

初日の夕食はこうして二つの大ショックとともに終わった。

◆初日の夜は更けて

夕食が終わるとまもなくシャーロットのお風呂の時間になった。ミスター・ベイカーが横長の浅い浴槽にお湯をはり、シャーロットを呼ぶ。彼女は嫌がることもなくお風呂に入っていった。私の部屋の向かいにある浴室から、さっきの追いかけっこのようなシャーロットのキャーキャーいう声と、娘をあやす父親の声が聞こえてきた。なんとも楽しそうだ。

お風呂から出たシャーロットはパジャマに着替え、十畳ほどはありそうな彼女の寝室に置かれたベッドに入る。大人用のシングルベッドだが、三歳の彼女にとっては海のように広い。眠る前は本を読んでもらう習慣になっているらしく、ミスター・ベイカーがベッドのかたわらに腰を下ろし絵本を広げて読みきかせていた。シャーロットは横になっておとなしくそれを聞いている。そうして八時前には彼女はぐっすりと眠りについた。

やがて夫妻が出かける時間になった。「出かける先はここよ。十二時ごろには帰るだろうけど、もし何かあったら電話してちょうだい」服を着替え、きれいにお化粧したミセス・ベイカーが外出先の名前と電話番号の書かれたメモを渡してくれた。電話をしなければならない事態など起こらなければいいが、と願いながらメモを受け取る。二人はグリーンのジャガーに乗りこんで出かけていった。「やっぱりイギリスの人が乗る車はジャガーなんだ」と妙な納得をしながら見送り、自分の部屋に戻った。さすがに疲れがでて、お風呂に入ることにした。浴室はホテルにあるようなトイレと一体式で、白く浅い浴槽が置かれ、日本のような洗い場はない。寒い時期ではなかったのでお湯はためずにシャワーで済ますことにした。このお風呂にも慣れなくては。そんなことを思いながらシャワーを浴びた。

お風呂から出た私はなんとなくシャーロットの様子が気になって、そっと彼女の寝室のドアを開けてみた。よく眠っているとみえて、スースーと寝息が聞こえる。まずは安心。やがて私もベッドに入った。仰向けに横たわると空腹感が押し寄せてきた。心の中で、「明日からはおせんべいか何か常備しとかなくちゃ」と思いながら眠りについた。

◆新生活のスタート

引っ越して最初のウィークデイが始まった。朝食はパンと目玉焼きそしてミルクティーだった。紅茶の国イギリスの人とはいえ、忙しい朝からリーフティーなど淹れる時間はないとみえ、よく見かけるメーカーのティーバッグを使っていた。ただし、カップに直接ティーバッグを入れたりせずに、必ずポットにティーバッグを入れてお湯を注ぎ、しばらく蒸らしてからカップについでいた。こうして淹れた紅茶は、なぜかとてもおいしかった。

ミスター・ベイカーは都内の勤務先まで車で通勤。山手にあるインターナショナル・スクールで働いているというミセス・ベイカーも自分用の車で出勤。シャーロットは同じ学校内の幼稚園に通っているため、お母さんの車で一緒に通園ということだった。朝一番初めに家を出るミスター・ベイカーは靴を履くと奥さんとシャーロットに軽くキスをした。後ろで見ていた私は思わず目をそらしつつも、映画みたいだ、と内心おおいに感動そして感激していた。「じゃあね、シズエ」私にも笑顔を見せてから、ミスター・ベイカーは出かけていった。近くのバス停から通学する私とシャーロットたちはほぼ一緒に家を出た。

学校に行くと、友人たちにさっそく新しい生活について聞かれた。私は広々とした家の様子にきれいな奥さんとやさしそうなご主人、そして無事なついてくれたシャーロットのことから、あまりに少ない夕食のこと、世にも珍しいお皿洗いのことなど半ば興奮気味に友人たちに語った。すべて順調な滑り出しとはいえないまでも、日本にいながら外国にいるような体験ができるベビーシッター生活を始めた私は、英語力向上への希望はもちろんのこと、これからどんな経験ができるのか、スリルにも似た期待でいっぱいだった。そして何より、自分になついてくれるかどうかあれほど不安に思っていたシャーロットが一日で私に慣れてくれたことが嬉しくてならなかった。

 
(つづく)