The Oxford Book of Children’s Storiesシリーズより出題中
入門翻訳勝ち抜き道場

エッセイ:翻訳の現場から

日本にいながら英国生活 ベビーシッター奮闘記 その1

村松静枝
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それは私が横浜にある短大に入った年の初夏のこと。校内の掲示板に貼られた募集情報がきっかけだった。

「住み込みベビーシッターの後任を募集します。夫婦と三歳の女の子一人のイギリス人家庭。食費・生活費は無料。連絡は二年X組 xxxxまで」

やった! またベビーシッターの情報が出た!

また、というのには理由がある。これより約二ヶ月前、同様の募集を他の二年生が出しており、私は面接を受けたものの、落選してしまったのだ。そのとき選ばれたのは二年生の先輩で、しかも前任者と友人関係とあっては信頼度も英語力も及ばなかったであろうことはまちがいない。選ばれなかったことには納得していたが、仕送りを受けながらアパートで生活していた私にとって、外国人家庭での住み込みベビーシッターという仕事は、生活費を節約しつつ、ほぼ一日中英語漬けの生活が送れるという、このうえなく魅力的なものだった。とはいえこういった情報はめったにお目にかかれるものではなく、ましてやインターネットも電子メールもなかった一九八〇年代のこと、頼りは学校の掲示板のみ。授業の前後は必ずその前に立ち、アルバイト募集の広告を一枚残らずチェックする毎日だった。

それから二ヶ月、やっと新しい募集告知を見つけた私はさっそく募集を出した二年生の先輩に電話をした。

「今入っているサークルの活動に本腰を入れたいと考えているの。それで、ベビーシッターとの両立が難しくなっちゃって、やめて実家に戻ろうと思って募集をしたの(彼女は実家が横浜市内にあるため、通学上の支障はなかったのである)。ベイカーさんというご家庭で、だんなさんはいい人だし、奥さんはとってもさばけた人なの。それに全然手のかからない子供だから大丈夫」

電話をしてから数日後の午後、先輩と私は学校の出口で待ち合わせをし、彼女の住み込み先——つまり私にとっては面接会場となる家に向かった。そこは学校から地下鉄で四つ目の駅を降り、バスで十五分ほどいった本牧地区にある閑静な住宅地だった。あとから気づいたのだが、その辺りはかなりの高級住宅地で、周囲は高い塀に囲まれた豪邸が軒を連ね、アルファベットの表札も数多く見られる地域だった。けれど面接のことですっかり緊張していた私はそんな周囲の環境など最初は目に入らなかった。
「どうか今度こそ採用されますように!」そんな気持ちでバス停を降り、面接会場となるベイカーさん宅へ向かった。

◆ダイアナ妃似の奥さんと人見知りする子供

玄関を開けると出迎えてくれたのは、明るいブロンドの髪を耳の下できれいにショートボブに切りそろえた長身の女性だった。ほほえみをたたえた青い瞳、すっときれいに整った鼻筋。「ダイアナ妃みたいな人だ」それがミセス・べイカーに会ったときの第一印象だった。金髪に青い目のイギリス人女性イコールダイアナ妃とは、なんとも平凡で陳腐な発想だが、当時の私が描いていた西洋世界のイメージなんてこんなものだった。

次に目に入ったのはミセス・ベイカーの長い足に隠れるようにして上目遣いでこちらを見上げている小さな小さな女の子。母親ゆずりの金髪がくりくりとかわいらしくカールしており、瞳も母親と同じブルー。鼻だけは母親と違い、丸くて少し上を向いている。平日の午後とあって、父親は不在だった。

「ハ、hello, my name is Shizue. ナ、nice to meet you.」精一杯の笑顔で挨拶をした。

“Hi, I’m Liz. Nice to meet you too. Come in!”とか何とか言ってくれたはずだが、何しろ緊張していて、具体的にどういう単語を使って話していたのか覚えていない。ミセス・ベイカーは夫婦の名前の印刷された名刺をくれた。生まれて初めて手にした英語の名刺だった。アルファベットで書かれたフルネームの下にカタカナで“クリス&リズ・ベイカー”と書いてある。ニックネームを名刺に書くなんて不思議だなあとぼんやり思った。私の名前は相当発音しづらいらしく、ミセス・ベイカーが顔をしかめてたどたどしく”S…Shi..zuu..ee”と発音していた。

ミセス・ベイカーに案内されて私と先輩はリビングのソファに座った。フカフカのカーペットが敷き詰められたその部屋は軽く二十畳以上はありそうだった。名前に続いて出身地などの自己紹介を何とか英語で済ますと、ミセス・ベイカーがだいたいの条件を話してくれた。出かけるのはたいてい木・金・土曜日などの週の後半の夜間だが、特定の日は決まっていない。娘の名前はシャーロット。彼女は毎晩八時には寝るから子守というより留守番をしてくれればいい、食事は朝と夕食付き。ざっとそんな話だったと思う。週二回、夕方から高校生の家庭教師のアルバイトをしていた私がその事情を説明すると、アルバイトのある日は私が帰宅するまで待ってから出かけるから問題ない、とのことだった。

◆子供は苦手だったのに

こうした会話の間中、シャーロットは母親にべったり張りついていて、私の様子を気にしつつも、声をかけるととたんにお母さんの腕の中に顔をうずめてしまった。「恥ずかしがっているだけなのよ。すぐ慣れるわ」ミセス・ベイカーが笑いながら彼女に、私に挨拶をするよう促すが、大きなまるい瞳でこちらをちらっとだけ見ると、また顔をふせてしまう。しまった。このとき気づいたのだが、私は子供が苦手だったのだ。英語を上達させたい、生活費を浮かせたいという動機だけでここまで来てしまったが、一番肝心なことを忘れていた。たったの三歳、しかも私を前にこんなに居心地悪そうにしている子供とうまくやっていけるだろうか。でも英語力は身に付けたい。頭の中で様々な思いがうずまいた。

他にも二人ほど応募者がおり、全ての応募者と会ってから返事をくれる、とのことだったので、とりあえずこの日は失礼することにした。一人になった帰り道、ようやく緊張の糸がほどけ、深呼吸しながら考えた。奥さんはとても感じのいい人だったし条件も問題なさそうだった。広々としたきれいな家で、私には二階に六畳ほどの個室が与えられる。部屋にはベッドと小ぶりなタンスがあり、特に家具を買い足す必要はなさそうだった。唯一の問題は、あの子——シャーロットだった。お人形のようにかわいらしい女の子だったが、果たして私になついてくれるだろうか。

中学時代、家庭科の実習で近所の幼稚園を訪問し、子供たちと遊んでいた際、ある女の子を泣かせてしまった前科があるのだ。園庭で級友や園児たちと走りまわって遊んでいたときのことだ。園児の中でもひときわ元気がよくて人なつこい女の子を、私は何か声をかけながら後ろから軽く背中を押した。すると彼女は泣き出してしまったのだ。こちらには全く悪気はなかったのだが、あれは彼女にしてみたらいじめられたと思ったのだろう。この経験は私の心の奥に小さな、けれど深い傷となって染み付いていた。そんな自分が毎日子供と暮らしていけるのか。まだ自分が選ばれるともわからないうちから、不安がこみあげてきた。とはいっても乗り込んだ船は降りられない。子供のことはあまり考えないようにしながら、アパートへと戻った。

 
(つづく)