入門翻訳勝ち抜き道場

エッセイ:翻訳の現場から

マンスフィールドを読んで訳して

村松静枝
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文芸作品の翻訳をまともに勉強しようと、藤岡啓介先生の翻訳ゼミに参加した。課題テキストは二十世紀初頭に活躍したニュージーランドの女性作家キャサリン・マンスフィールドの短編作品 "The Garden Party" だった。すでに何点か既刊の訳書があり、タイトルは『園遊会』『ガーデンパーティ』の二通りがある。どちらを選ぶかは受講者の自由とのことだった。『園遊会』ときくとどうしても、年に何度か行われる皇室主催の園遊会がイメージとして浮かんでしまう。各界の著名人が一列に並んで、天皇皇后がひとことずつお声をかけるというあの映像だ。私は迷わず『ガーデンパーティ』を選んだ。

Katherine Mansfield著、Vincent O'Sullivan序 New Zealand Stories
Katherine Mansfield著、
Vincent O'Sullivan序
New Zealand Stories
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物語は二十世紀の始め頃と思われるニュージーランドのとある裕福な家庭—シェリダン家で行われたガーデンパーティを巡る一日のできごとだ。

主人公はこの家の子供の一人で、十歳ほどと思われる女の子ローラ。ローラにはやや年の離れた兄ローリィと姉のジョウズとメグがいる。晴天に恵まれたパーティの朝、ローラはパーティの準備のためにやってきた職人たちの清々とした姿に、ふだん自分が接している上流の子弟たちとは違う空気を感じ、彼らに親近感を覚える。

準備がすすむなか、屋敷の丘を下った先で荷馬車の御者の男が馬車から落ちて死んだという知らせが入る。近所で不幸があったのだからパーティを中止すべきだとローラは訴えるが、姉も母もとりあわず、それどころかローラを非常識だと責める。ローラは自分の考えがおかしいのかと悩むが、判断がつかず、結局は気持ちをパーティへと切り替える。

パーティは盛況に終わった。招待客を見送った一家がごちそうの残り物が並ぶマルキーで休憩していると、父親が死んだ御者の話を持ち出したため、ばつが悪くなった母親は、ローラに残ったごちそうを御者の遺族の家に持っていくよう言いつける。不幸な人たちに残り物を持っていけという母親の態度を、ローラはまたも疑問に思うが、なかばやけになって出かけていく。

屋敷から坂を下った先に並ぶ粗末な家々の一角にあった御者の家に行き、そこで夫を亡くし悲しむ未亡人に会い、さらに男の遺体を間近に見たローラは、そのあまりに静謐で美しい姿に驚きつつ、泣きながらその場から逃げるようにして去る。帰る途中で、心配して様子を見にきたローリィに会い、ローラは気持ちをうまく表現できず泣いてしまう。ローリィはやさしく妹の肩を抱く…。

以上が物語の概要だ。全十七ページという短編で、一文一文がさほど長くなく、難解な単語もほとんど使われていない。主人公は上流家庭に育った少しおませなかわいらしい女の子。一読すれば話の筋はほぼ理解できるし、小説として楽しむにはうってつけの物語という第一印象だった。ところが訳してみると一筋縄ではいかなかった。

翻訳とはひとつの冒険なのだ

最初に悩んだのがローラの年齢だった。作者は登場人物の年齢などに一切触れていない。だからこちらは人物の言動から推測するしかない。設定年齢によって、ローラの会話の表現や彼女の考えの解釈が変わってくるので、これは非常に重要なきめごとだった。私が当初考えたローラは十六歳くらいだった。しっかり者で、パーティの準備では母親に一番あてにされているようだし、感受性が豊かで思いやりもある。しかしゼミの場で討論した結果、十歳位だろうということに落ち着いた。たしかに、しっかり者というよりは、しっかりしたところを見せたくて大人ぶっているといったほうが正しい。職人に対して母親の口調を真似てみせたり、シュークリームで頬をクリームだらけにしたりするあたり、やはりまだ子供だろう。とはいえ作者は年齢についてひとことも述べていないし、すでに彼女は世にいないから、確かめようもない。こうだと推定したらあとは信じて進むしかない。おおげさかもしれないが、翻訳とはひとつの冒険なのだと感じた。

文頭でつまづく

いざ訳し始めてみると、文頭の "And after all the weather was ideal." でさっそくつまづいた。"And" で始まる小説なんて許されるのだろうか。いったい何に対しての"and"なのだろう。これは他の小説の続編なのか、いや、ひょっとして課題テキストの最初の部分が欠落しているのではないかとすら思った。この出だし部分をどう訳そうか、悩みに悩んだあげく、「結局のところ申し分のない天気になった」というなんのひねりもない訳文となった。

本誌『WEBマガジン出版翻訳』に掲載されている藤岡先生の「翻訳玉手箱」第一回目にこう書かれている。「……いずれにしても、作家にとって「書き出し」は重要で、ゆっくりと人物や背景を語りながら気息を調えるとでもいうのでしょうか(中略)、作家はこの冒頭の一句が浮かんでくるまで何年も「書き出せないでいた」か、あるいは言葉が浮かんできて一気に大ロマンを書き進めたか、いずれにしても文章に生命をもたす文学作品では、冒頭の一句は余人にはうかがい知ることのできない重みがあります」。マンスフィールドが最初の一句に込めた思いをしっかりと受けとめた訳文を創れなかった。彼女に申し訳ない。

「庭師」にも文化の違いが

ともあれ冒頭の一句に続いて訳し始めてはみたが、最初のパラグラフから、ごく簡単な単語の解釈をめぐって、二十世紀初頭のニュージーランドの上流社会と二十一世紀初頭の日本の庶民生活の差を感じた。ガーデンパーティの準備のために庭師が庭の手入れをするというくだりがある。原文はこのようになっている。

"The gardener had been up since dawn, mowing the lawns and sweeping them, until the grass and the dark flat rosettes where the daisy plants had been seemed to shine."

私はこの前半部分を「庭師が夜明けごろからやって来て」としたが、ゼミで「この庭師は外から通って来るのではなく、お屋敷に住み込みの庭師で、いつも屋敷の庭の手入れをしているはずだから、『やって来て』はおかしいのではないか」との指摘を受け、ただうなずくばかりだった。「庭師」といえば、はっぴに地下足袋といういでたちで、りっぱな松か何かの木がある家の庭に脚立を立てて枝の剪定をする庭師のイメージしか持っていなかった私には、"gardener"という単語ひとつの解釈すら正確にできていなかった。

後半の "until the grass and the dark flat rosettes where the daisy plants had been seemed to shine."の" where the daisy plants had been" にも手を焼いた末、「以前咲いたデイジーの跡が黒ずんで平らになったところも」と訳した。以前に咲いたデイジーの跡が枯れるなどして自然に黒ずんだものだろうと判断したが、先生がイギリス人の文学者に確認されたところによると、「デイジーは雑草として扱われるので、rosetteは庭師が雑草のディジーを抜きとった跡のバラ模様」とのことだった。可憐なデイジーが雑草とは驚いた。お国振りが変わると花の扱いもずいぶん変わるものだと、なにやらデイジーが哀れに感じられた。

うっかりトースト

また、パーティ用のマルキーを建てるためにやってきた職人たちに指図をするためローラが朝食のテーブルから外に飛び出していく場面の "Away Laura flew, still holding her piece of bread-and-butter" でも同じような失敗をした。"bread-and-butter" を短絡的に「バタートースト」と訳したのだが、これについても「われわれは買ってきたパンをトースターで焼いてバターをつけて食べるのが一般的だが、ローラのお屋敷ではどうだろう? 毎朝自家製の焼きたてのパンが出てくるのではないだろうか。だからわざわざトーストにする必要はないのでは? ここは単に、バターつきのパン、でいいのでは」との先生の意見にまたもやうなずくしかなかった。このように、ローラと私の日常生活の大きな隔たりが、そのまま翻訳にも影響してしまった。ローラの家の "kitchen" に至っては、単なる「台所」ではなく、「調理台、かまど、食品収納棚、洗い場、納戸、石炭置き場」まで含めて "kitchen" と総称するのだということなど、最初に訳出したときは想像すらできなかった。

"gardener" と "daisy" そして "bread-and-butter" に "kitchen"、物語の大筋を左右する場面で使われているわけではないし、わざわざ辞書を引きなおす必要もなさそうな、なんの変哲もないことばだ。しかし解釈を誤ると物語の格を下げてしまう。

エキストラでの経験

話が少しそれるが、私は初夏のころ、ある映画撮影のエキストラに参加した。セリフもないし、主役の俳優たちが話しているずっと後ろで指示された動きをするだけの簡単なものだった。何もせず待っている時間も長かったので、私は小道具係やヘアメイクなどのスタッフの動きをずっと観察していた。彼らは一シーンごとに実に細かいところまでチェックを怠らないのだ。主役はもちろんのこと、実際の映像では映るかどうかもわからない、映ったとしてもはるか後ろ、観客に気づかれもしないようなエキストラの衿の乱れやほつれ髪一本に至るまで、目を皿のようにして確認してまわっていた。ある男性スタッフがリボンの付いた大きな百合の花を、それこそ腫れ物に触るように丁寧に大切に扱い、リボンがわずかでも曲がっていればすぐに駆け寄って直していた。俳優が不注意に触れてしまい、花が下を向いてしまっても、何も言わずに向きを直していた。

私はこれらスタッフたちの仕事に対する姿勢に心の底から感動してしまった。"gardener" や "daisy" などのことばは、目立たないけれど物語を彩る大切な小道具だ。映画と翻訳、表現方法は異なるけれど、細部にいたるまで真摯に、妥協しない姿勢はどちらにも共通して求められる大切なものだ。一見平凡な四つのことばによって、翻訳者としての姿勢の正し方を学んだ。

作者が人物のなかにするりと入りこんで語りだす

訳出の苦労話ばかり並べているのではただの愚痴になってしまいそうだ。この作品はもちろん非常に魅力的だった。魅力の最大の源は、マンスフィールド独特の人物の心理描写の方法だと思う。登場人物の心の動きを客観的に語るのではなく、登場人物になりきって表現しているのだ。変なたとえかもしれないが、マンスフィールドが空中から物語の演じられている舞台を見下ろしながらナレーターを務めている、そしてここぞという場面になると、さっと舞台に降りてきて人物のなかにするりと入りこんで語りだす、そんなイメージだといえばいいだろうか。

例えばこんな部分がある。パーティのマルキーを建てるためにやってきた職人に対し、ローラは母親の口調を真似てきどってみたものの口ごもってしまい、恥ずかしくなってしまう、けれど職人の優しい笑顔に気をとりなおす場面だ。

His smile was so easy, so friendly that Laura recovered.What nice eyes he had, small, but such a dark blue!And now she looked at the others, they were smiling too."Cheer up, we won't bite," their smile seemed to say.How very nice workmen were!And what a beautiful morning!She mustn't mention the morning; she must be business-like.The marquee.

主語こそ "Laura", "she" といった具合にすべて三人称が使われているが、"What nice eyes…" 以降の内容は本人の気持ちが本人のことばで描かれている。とくに後半部分は "How very nice…", "what a beautiful…" と感嘆文の連続だ。ローラの内なる感情がほとばしるようにはつらつと表現されている。

次の文でも同じことがいえると思う。職人のひとりがラベンダーの小枝をつまんで香りをかぐ様子を見てローラが驚き、すっかり彼らを気に入る場面だ。ローラの気持ちが最高潮に達した場面で、彼女の純真さ、曇りのないまっすぐな気持ちがこれ以上ないくらい生き生きと表現されている。私自身はこの部分が一番好きだ。

When Laura saw that gesture she forgot all about the karakas in her wonder at him caring for things like that--caring for the smell of lavender.How many men that she knew would have done such a thing?Oh,how extraordinarily nice workmen were, she thought.Why couldn't she have workmen for her friends rather than the silly boys she danced with and who came to Sunday night supper?She would get on much better with men like these.

It's all the fault, she decided, as the tall fellow drew something on the back of an envelope, something that was to be looped up or left to hang, of these absurd class distinctions.Well, for her part, she didn't feel them. Not a bit, not an atom...And now there came the chock-chock of wooden hammers.Some one whistled, some one sang out, "Are you right there, matey?""Matey!"The friendliness of it, the--the--Just to prove how happy she was, just to show the tall fellow how at home she felt, and how she despised stupid conventions, Laura took a big bite of her bread-and-butter as she stared at the little drawing.She felt just like a work-girl.

主語は一貫して "she", "Laura" だが、ここではローラが「ああ、本当に職人さんたちは素敵だ、この人たちと友達になれたらいいのに」と職人に対する好意で胸がいっぱいになってあふれんばかり。瞳をきらきらさせて職人を見つめている姿が浮かんできそうだ。うまく訳出できたかは自信がないが、訳しているときの気分は爽快で、パソコンのキーボードを打つ音も弾むようだった。

このように三人称を一人称的に使いながら、登場人物自身の気持ちを鮮やかに表現させた場面がふんだんに登場するのが、この作品の最大の特長であり最高の魅力だと私は思う。おかげで読者は登場人物の気持ちをぐっと近くに感じることができる。訳し始めたころは、この描写にずいぶん悩まされたものだ。主語はあくまで三人称だし、三人称のまま訳すべき部分も当然あるため、どこで切り替えたらいいものか非常に困った。すべてを「彼女は…」だの「ローラは」だのと訳したら彼女の気持ちの高まりがまったく伝わらない。原文が"she"であろうが、一人称的に訳出することで初めて原文の瑞々しさが生きる、そんな部分があちこちに散りばめられている。マンスフィールドが登場人物になりきったように、訳者もその人物になりきってことばを選ぶ必要がある。

一ヵ所だけ、この心理描写のルールから外れている部分がある。マンスフィールド自身の主張と思われる部分が突然登場するのだ。ゼミの場で、「これはいったい何だろう」と皆で頭をひねったが結論が出ず、すっきりしなくて頭の隅にこびりついていた。死んだ御者が暮らしていた家並みの様子が語られる部分だ。

When the Sheridans were little they were forbidden to set foot there because of the revolting language and of what they might catch.But since they were grown up, Laura and Laurie on their prowls sometimes walked through.It was disgusting and sordid.They came out with a shudder.But still one must go everywhere; one must see everything.So through they went.

シェリダン家の子供たちは、見るからに貧しく衛生状態も悪そうなこの路地に近づくのを禁じられていた。しかしローラとローリィは散歩の途中でおびえつつも路地を通り抜けていた。なぜなら "But still one must go everywhere; one must see everything." だからだ。舞台に降りたマンスフィールドが、人物のなかに入らずにまっすぐ客席に向かって歩いてきてこぶしを振りあげ訴えているようだ。この文だけが、まったく異なる視点で書かれているように思われてならない。

マンスフィールドが小説に書いた事柄はすべて実際に自分が体験したことだという。彼女がこの作品を書いたのは三十二〜三十三歳のときで、このころまでに彼女はイギリス、南仏、イタリア、スイスとヨーロッパ各地に移り住み、結婚と離婚、流産まで経験している。そんな彼女が、酸いも甘いもかみわけた彼女が、上流階級という温室の中で、外の世界を知らずに暮らしているローラ、つまり何も知らなかった幼いころの自分自身に向かって思わず「人生とはこういうものなの、温室の中だけではなく、外のいろんな世界にも目を向けてこそ、生きる意味があるのよ」と投げかけたことばではないだろうかと私は思う。こんなふうに過去の未熟な自分をふり返る経験は、誰にも覚えがあるはずだ。

人生って……

そういえば、物語の最後に「人生」—"life"が登場する。妹を心配して様子を見にきたローリィが、泣いている妹をやさしくなぐさめ、物語は終わる。

Laurie put his arm round her shoulder."Don't cry," he said in his warm, loving voice."Was it awful?"
"No," sobbed Laura."It was simply marvellous.But Laurie--"She stopped, she looked at her brother."Isn't life," she stammered, "isn't life--"But what life was she couldn't explain.No matter.He quite understood.
"Isn't it, darling?" said Laurie.

ローラは「人生」—"life"ということばを兄に説明しようとするができない。小さなローラに人生がなにか、なんて説明できるはずがない。ローラの代わりにマンスフィールドが "But still one must go everywhere; one must see everything." と人生の意義を語っている、と考えるのは飛躍しすぎだろうか。順序は前後するし、マンスフィールド自身、ローラの気持ちを代弁するつもりはなどなかっただろう。ただ、昔の自分を思い出しながらこの作品を書きすすめるうちにふと、思いが高まって、幼かった自分に声をかけてしまったのではないだろうか。

半年間、翻訳に取り組んできたマンスフィールドの "The Garden Party" は、独特の心理描写で読む者を物語の世界に引きこみ、その描写方法ゆえに訳す者をほんろうさせながらもやはり魅了して離さない力をもっていた。読者としても訳者としてもこの作品とおつきあいすることができたことはたいへんな幸せだった。藤岡先生はこういわれた。

「翻訳者として、『この作家に関しては誰にも負けない』と胸を張っていえるくらい惚れこめる作家を見つけなさい」。

ゼミが終わって約一ヶ月、私の手元にはマンスフィールドの "New Zealand Stories" がある。ニュージーランド時代の彼女の短編が二十九編も載っている作品集だ。私の一生を捧げられるような作家を探すため、もっと他の作家にも目を向けようと思ってはいるけれど、とりあえず今はまだ彼女の世界に浸ったままだ。