入門翻訳勝ち抜き道場

エッセイ:翻訳の現場から

モーツァルトとダ・ポンテ

情熱に駆られて駆け抜けたヴェネツィア、ウィーン、ロンドン、そしてアメリカ。
ダ・ポンテが人生の旅を終えたのは、一八三八年八十九歳の時だった——
桃山まや
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モーツァルト
(PalmBeachPostより)

一七八六年五月一日、ウィーンのブルグ劇場を埋め尽くした観客は総立ちになり、われんばかりの拍手で何度となくアンコール演奏を要求した。演目は『フィガロの結婚』。従僕のフィガロが、小間使いのスザンナが、そして伯爵夫人が観客の前に呼び戻されてはアンコールに応える。予定の公演時間を過ぎても人々の熱狂はおさまるところを知らず、ヨーゼフ皇帝以下、サリエリをはじめとする宮廷付音楽家たちの視線を背中に感じながら、モーツァルトはこのうえなく満ち足りた気分でオーケストラの指揮を続けていた。

客席にも一人、成功の喜びに酔いしれる男の姿があった。立ち上がり、こぼれ落ちる涙をぬぐおうともせず、二階のバルコニーから身を乗り出すようにして惜しみない拍手を送り続けている。彼の名はロレンツォ・ダ・ポンテ、オペラ『フィガロの結婚』の台本を書き、初演へと導いた詩人であった。

ロレンツォ・ダ・ポンテは一七四九年にユダヤ人としてイタリアのチェネダに生まれた。もとの名はエマニュエーレ・コネリアーノ。幼いころに母親を亡くし、父親の再婚にともない少年時代にカトリックに改宗している。ロレンツォ・ダ・ポンテという名は、当時の慣例に従って、洗礼を施してくれた司教モンシンヨール・ロレンツォ・ダ・ポンテの名からとったものだ。

その後、司教の計らいによって教育を受け司祭にまでなるが、ある人妻とのスキャンダルが原因でヴェネツィアからの追放を言い渡されてしまう。期間は十五年だった。各地を転々としながらウィーンへ向かったダ・ポンテは、宮廷音楽長をしていたサリエリの口添えで、オーストリア皇帝ヨーセフ二世に召抱えられる。ユダヤ人であるダ・ポンテが、カトリック社会で生きていくのは容易なことではなかったが、彼の上にはヨーセフ二世の暖かいまなざしが絶えず注がれていた。

しかしウィーンでの暮らしもそう長くは続かなかった。最大の支援者ヨーセフ二世が没すると間もなく、敵対する勢力の陰謀によって宮廷から追放されてしまうのだ。

失意の中ダ・ポンテはパリ行きを決意するが、ヨーゼフ二世の妹マリー・アントワネットが捕らえられたことを知り、行き先を急遽ロンドンへと変更する。しかしロンドンも終の棲家とはならなかった。晩年はアメリカに渡り、イタリア文化の普及に力を注ぎ、コロンビア大学の初代イタリア語教授になる。だが夢はアメリカ初のオペラハウスの創設だった。一八三三年、八十四歳のときに念願のオペラハウスをオープンさせるが数ヶ月のうちに破綻。残念ながらアメリカにはオペラを根付かせるだけの土壌がなかった。情熱に駆られて駆け抜けたヴェネツィア、ウィーン、ロンドン、そしてアメリカ。ダ・ポンテが人生の旅を終えたのは、一八三八年八十九歳の時だった。

ダ・ポンテが始めてモーツァルトに出会ったのは、一七八三年、ウィーンの宮廷でオペラの台本作家として活躍しているときだった。二人を引き合わせたのは、オッフェンバッハの銀行家ウエッツラー男爵だったといわれている。
「ウィーンに来て二年、イタリアオペラを作るためにむなしい努力を続けていた二十七歳の若きモーツァルトは、オーストリアでもっとも有名な台本作家ダ・ポンテ師に会うのをどれほど心待ちにしていたことだろう」

(“The Man Who Wrote Mozart”, Anthony Holden, 桃山訳)

この頃のモーツァルトは、ウィーンの宮廷に職を見つけることができずに失望をかみしめる日々を送っていた。なんとしてもイタリアオペラで成功しなければならない。それには宮廷一の台本作家ダ・ポンテの協力がどうしても必要だった。しかしダ・ポンテはあれこれ理由を見つけては台本の制作を先延ばしにしていた。

モーツァルトは父親にあてた手紙の中で当時の様子を次のように語っている。
「ここウィーンにはダ・ポンテ師という詩人がいます。いま劇場用に台本を書き換える仕事で大忙しですが、それが終わったら、僕のためにも台本を書いてくれると言っています。しかし彼が約束を守ってくれるのか、あるいは約束を守る気があるのかどうかはわかりません。イタリア人というのは皆そうしたものだということを、お父さんだってご存知でしょう。面と向かうととても愛想がいいのです。いや、もうよしましょう。そんなことははじめから判っていたことです。それに彼とサリエリとのあいだで話がついているとすれば、ぼくのために作品を書くはずなどないのですから。でも、僕はなんとしてでもイタリア語のオペラで自分の腕前を披露したいのです」

(同上・桃山訳)

この手紙からもわかるように、出会った当初、モーツァルトはダ・ポンテにとって取るに足らない存在だった。モーツァルトがウィーンに来てはじめて書いたオペラ『後宮からの逃走』が、ヨーセフ二世から芳しい評価を得られなかったということが大きく影響していたのかもしれない。ヨーセフ皇帝は音楽に造詣があり、演奏に関しても秀でた才能を発揮したといわれているが、あたらしいモーツァルトの音楽をすぐに理解することはできなかった。

結局二人が最初のオペラ『フィガロの結婚』に着手したのは、出会ってから二年以上もたった一七八五年の秋のことだった。

「わたしの書く台本に曲をつける気持ちがおありですか」ダ・ポンテがモーツァルトにたずねた。
「もちろんです、ぜひともやらせてください」即座に答えたものの、モーツァルトはすこしばかり不安げに付け加えた。「ただ、わたしが今考えている芝居をオペラにすることが許されるかどうか……」
「それをなんとかするのが私の仕事ですよ」

(“MEMOIRS”, Lorenzo Da Ponte, 桃山訳)

当時、政治上の理由からウィーンでの上演をかたく禁じられていた喜劇だったために、『フィガロの結婚』の制作は秘密裏に行われたが、ダ・ポンテの巧みな話術と、政治色を薄めた文句のつけようのない脚色によって、皇帝からの許可を取り付けることができたのであった。

付記:「モーツアルトと聞いてすぐに思い浮かぶものは何ですか」ときかれたときに、あなたならなんと答えるだろう。『フィガロの結婚』の中で歌われている有名なアリアを思い浮かべるのだろうか。それとも『ジュピター交響曲』の名をあげるだろうか。もしかしたら、軽やかにはずむようなタッチで奏でられるピアノコンチェルトと答えるのかもしれない。百人百様の答えを期待できるのもモーツァルトならではだ。

The Man Who Wrote Mozart

モーツァルトと聞くとすぐに、中学校の音楽室の壁に飾られていた肖像画を思い出すと言った友人がいた。眉間にしわを寄せ、仁王のような形相でこちらをにらんでいるベートーベンの隣で、はれぼったいまぶたを上げ、前のほうを見つめているモーツァルトのはかなげな横顔を、わたしもよく覚えている。あれはダ・ポンテとモーツァルトが出会った、一七八三年に、義兄であるヨーセフ・ランゲによって描かれたものだ。瞳の奥でモーツァルトはいったい何を考えているのだろうか。ふとそんなことを考えてしまった。

わたしはこの問いに、今なら考えるまでもなくダ・ポンテと答える。モーツァルトでオペラの台本作家の名前を思い浮かべるなんていかにも音楽通といった感じだが、これはごく最近のこと、たしかに学生時代には、友人に頼まれて『フィガロの結婚』に登場するケルビーノや伯爵夫人のアリアの伴奏をしたことはあったが、ダ・ポンテに関してはほとんど何も知らすにきてしまった。それが昨年たまたま『The Man Who Wrote Mozart』(Anthony Holden, Weidenfeld & Nicolson)というダ・ポンテの評伝に出会った。すっかり夢中になってしまった。今は稀代の詩人、ダ・ポンテをせいいっぱい語りたい思いでいる。


主要参考文献
『モーツァルトの手紙(下)その生涯のロマン』柴田治三郎編訳岩波文庫
“MEMOIRS” Lorenzo Da Ponte , translated by Elizabeth Abbott, The New York Review Books
“The Man Who Wrote Mozart”, Anthony Holden, Weidenfeld & Nicolson