豪に入ってはOZ(オージー)に従え
オージー気質 − カフェで

毎年11月の第一火曜日に開催される競馬メルボルンカップ。この日メルボルンは祭日となる。

メルボルンカップは女性達の艶やかなファッションでも有名。特に帽子は必須アイテムで、帽子に合わせたファッションがこの日のテーマ。
日本人は世界で一番忍耐強い民族。オーストラリアに来るまでそう信じていた。フレンドリーなオージーだって西洋人なのだから、怒った時は自分の感情をもろに表す。それに比べて私達日本人は、悔しくてもジッと我慢。ところがこちらに住んでいると、そんな私の思い込みを大きく覆す出来事に遭遇することがよくある。
メルボルンで学生をしていた頃、友人の紹介でオーストラリア人の年配の男性に日本語を教えることになった。彼のほうは私の英語をチェックしてくれるということで、お互いにギブアンドテイクの語学練習である。その彼ジョンさんとの初めての待ち合わせは、ジョンさん行きつけの郊外のカフェ。現役時代は弁護士だったというジョンさんの趣味はマラソンで、日本のマラソンに参加した際に日本人のランナーと話が出来るようにと日本語を勉強中。
そんな彼の自己紹介を聞いていた時、ぽっちゃりした若いウエイトレスが、オーダーしていたコーヒーを運んできた。彼女はジョンさんの前に白い磁器のカップに入ったカプチーノを置くと、次にお盆からグラスに入った私のカフェラテを持ち上げた。そして、どうしたはずみか私の目から数センチの所でグラスから手を離してしまった。グラスは私の胸から腿を経由して床に落ち、何度か回転して音を立てて止まった。グラスは割れなかったが、自分の買ったばかりの白いセーターが、胸からおへその部分まで茶色に染められ、色あせたGパンの腿の部分が濃い色に変わっていくのを、私はスローモーションを見るように呆然と眺めていた。あまり熱いコーヒーではなかったようで火傷はしなかったが、予想もしていなかった出来事にただ言葉を失ってしまった。
ウエイトレスはキッチンからタオルを二枚つかんで走って戻ってくると、一枚を私に投げてよこし、残りの一枚で自分は床を拭き始めた。床の掃除が終わると、彼女は初めて私を見上げ、”Are you all right?”と聞いた。今考えると「火傷しなかった?大丈夫?」という意味も含まれていたのかもしれないが、そのカジュアルな聞き方と、”I am sorry.”という言葉が一言もないことにムッとした私は「ノー」と憮然として答えた。彼女はちょっと困ったようにもう一度”Are you all right?”と繰り返した。「ノー」だけではわからないらしい。私は彼女を睨み付け「アイ ドント シンク ソー」と答えた。すると彼女は私の答えを聞かなかったかのように、”Are you all right?”とまたしても聞いてきた。私が”I am fine.” 或いはオージーが良く使う”No worries.(No problemの意味)”と言うまで、彼女は”Are you all right?”と聞き続けるつもりなのだろうか?そして私が”I am fine.”と言ったら、私の白地に大きく茶色のシミが出来た無残なセーターを無視して、何事も無かったかのように去っていくつもりなのか?
日本のレストランや喫茶店でこんなことが起こったら、こちらが何も言わなくてもマネージャーが飛んできて平謝りに謝り、着替えの服を貸してくれるだろう。クリーニング代も出してくれることだろうし、洋服を弁償することだって有るかもしれない。でも、ここオーストラリアでは勝手が違うのか?大らかなオージーにとっては、コーヒーをこぼされるくらい大したことではないのか?それとも交渉の国オーストラリアでは、こういう場合でも上手く交渉しないといけないのか?郷に入っては郷に従え、豪に入ってはオージーに従いたいと思っている私は、般若の形相でウエイトレスを睨みつつも、どう対応したらよいのか困ってしまった。
その時、目の前に座っているジョンさんが元弁護士だったことを思い出した。そうだ、彼は交渉のプロじゃないか。きっと私のためにオージー流に上手に交渉してくれるに違いない。救いの目を向ける私にジョンさんは、片言の日本語でこういった「シ・カ・タ・ナ・イ」。一瞬意味がわからず、「イックスキューズミー」と聞き返した。すると今度は英語で「済んだことはどうしようもないでしょ?日本人は忍耐強いんだから我慢しなさい」と言った。ジョンさんの行きつけのお店だし、彼との初めての勉強会なので、雰囲気を壊したくないと心を静めようといえいていたのに。ジョンさんに対しても猛烈に怒りを感じた。私はかろうじて「この洋服はひどすぎる。こんな格好じゃ家に帰るのに電車にだって乗れない」とつぶやいた。するとジョンさんは「問題ない。自分が家まで車で送ってあげる」と言った。それを聞いたウエイトレスは”That would be great!”と言ってキッチンに戻ると、お詫びのしるしにと一口大の丸いチョコレートを何個かとコーヒーサービス券を1枚持って戻ってきた。ジョンさんは「自分は糖尿病だからチョコレートは全部あげる。コーヒー券は自分が貰うよ。あなたはこのお店にはもう二度と来たくないでしょ?」と笑って言って、このコーヒー事件の幕を強引に下ろしてしまった。
「オーストラリアではこれが普通なの?」私の怒りは治まらず、この出来事をオーストラリアに長く住んでいる日本人の友達数人にぶちまけた。「それはヒドすぎる」。友人達は話を聞いて皆怒ってくれるものの、「あなただったら、どうした?」と聞くと「・・・。そんな目に会ったことないからわからない」とか、「オージーは寛容だから、それが普通なのかも」という答えしか得られなかった。
オーストラリア人の友達にも話したところ、「信じられない!許せない!あなた、それは毅然とした態度で臨むべきよ」と興奮して言うので、「どんなふうに?クリーニング代の請求をするとか?」と聞くと、急にトーンを落とし「それはどうかしら・・・。私だったら、自分の友達全員にあそこの店には行くなって言いふらすわね。それがお店にとっては一番痛手でしょ」と言った。「たったそれだけ?」私はかなりガッカリした。
別のオージーの友達は「自分だったらクリーニング代なんて生易しいものじゃ済ませない。マネージャーを呼びつけて、新品の洋服を買うお金を出させる。もちろん実際の服よりも高額の金額を請求するよ」と、あまり上品ではないアドバイスで、実際的だとは思えなかった。
それからしばらくして、セーターの季節も終わり、そのコーヒー事件もすっかり忘れてしまっていた頃、日本人の友人の一人が「コーヒー事件の答えが見つかったよ!」と興奮気味に話してくれた。
天気の良い日曜日、屋外のカフェで彼女がお茶を飲んでいた時のこと、隣のテーブルでトレイに載せたグラスに水を注いでたウエイトレスが手を滑らし、お客さんの頭の上から水をかけてしまったのだそうだ。お客さんは10歳くらいの男の子だったそうだが、一部始終を見ていたその友達は、周りの反応に驚いたという。
一緒に居た男の子の両親がまず笑い出した。それからその水をかけられた男の子本人も笑い出し、水をこぼしたウエイトレス自身も笑い出した。それにつられて周りのテーブルの人達も笑い出した。「それで?」先を急かす私に友達は「それでお仕舞い。暑い日だったし、男の子が着ていたTシャツもそこまで濡れてなかったから、代わりのTシャツを貸すこともなかった。支払いを安くしてる様子や何かサービスをしてる様子もなかったわ。その場に居て笑ってなかったのは私だけだったと思う。オージーは寛大だって、また改めて思ったわ。あの人達、本当に怒らないわよね。あなたがコーヒーをかけられた時も、笑い飛ばすっていうのがオージー流だったのかもよ」と言った。
水をかけられるのとコーヒーをかけられるのでは差があるものの、もしもこれが日本でだったら、喫茶店で頭の上から水をかけられて、笑って済ますお客さんというのは数少ないと思う。世界一忍耐強いと私が信じていた私達日本人よりも、オージーはずっと寛大だ。日本の数十倍の土地に、日本の数十分の一の人口しかいない所で生まれ育ったら、オージーのように大らかになるのだろうか。
豪に入ってはオージーに従え。次に同じような目に遭遇したら、私もオージーを見習って、もう少し大らかに対応したいものだと思う。もっとも、カフェでコーヒーをこぼされるような目には、もう二度と会いたくないが。


























