豪に入ってはOZ(オージー)に従え
オーストラリア住宅事情 ~Most livable city in the world

メルボルン観光名所の一つ、グレートオーシャンロードの12人の使徒(12 Apostles)。
素晴らしい自然岩の景観を楽しむことが出来ます。
通訳、翻訳の勉強のためにやってきたオーストラリアだったが、次第に現地の会社で働いてみたいという気持ちが強くなり、その必要要件である永住権を取ることにしたという話は前にも紹介した通りだ。当時の私の年齢や条件で永住権を取るには、オーストラリア政府が地域活性化のために制定した「地方に二年間住み、そこで一年間フルタイムで働けば永住権を申請できる」という暫定的なビザを踏み台にするしかなかった。このビザの保持者は、国民健康保険等の社会保障が受けられないといった制約を受けるものの、永住権を持っている状態と変らず現地の会社で働くことができる。ビザの要件を満たすクィーンズランド州の地方で暮らすことを条件にしたビザを申請したのは、メルボルンへ来てから三年目の2006年3月のことだった。
申請したビザが発給されるまでの期間は、ビザの種類や申請者の条件の他、申請時の社会背景によっても異なり、数カ月から長い場合には一年以上かかるケースも有る。オーストラリアが難民を多く受け入れた年には、難民以外の移民の受け入れ枠が減るため、ビザの発給にも影響が出る。申請者はビザの発給を待つ間は基本的に国外へ出ることも出来ず、ビザがいつ貰えるのか分からないという不安定な状態に置かれることになる。私の場合はこの期間中メルボルンで働くことについては制限がなかったため、契約社員ではあったが法律事務所で翻訳の仕事をすることが出来た。皮肉なことに、ビザの発給を待つこの不安定な期間が、私のメルボルン生活の中で一番充実していた時期だと言える。
学生としてメルボルンで過ごした最初の二年半は、初めての外国生活によるストレス、勉強とアルバイトの両立、試験のプレッシャー等大変なことも多かったが、フルタイムで翻訳の仕事をするようになってからは、精神的にも経済的にも安定し、メルボルンでの生活を心から楽しめるようになった。
メルボルンは、”Most livable city in the world”(世界で最も暮らしやすい街)に何度も選ばれたことがある都市だが、実際に暮らしてみるとその理由がよくわかる。
オーストラリア大陸の南東部に位置し、ビクトリア州の州都であるメルボルンには歴史的な建造物も多く、その荘厳な街並みはヨーロッパを彷彿とさせる。ガーデンシティの異名の通り市内各所に美しい公園を擁し、郊外にはビーチや山林といった自然も溢れている。人種の坩堝と呼ばれる通り外国からの移民が多く、中華街、レバノン街、ギリシア街、イタリア街、ベトナム街等では各国本場の料理を楽しむことができる。カフェが多いのもメルボルンの特徴で、メルボルンのコーヒー水準の高さはかなりのものだ。芸術やスポーツの街でもあり、舞台やコンサート、国際的なテニス杯やメルボルンカップの名で知られる競馬等、様々なイベントが年中催されている。街の中には大学や文化施設も多く、知的好奇心をかき立てられる機会も多い。
「一日に四季が有る」と言われるくらい気候の変化が激しいことがアンチメルボルン派の批判するところだが、慣れてしまえばそれも特には苦にはならない。
コスモポリタンで活気に満ち、自然溢れるメルボルンが、「世界で最も暮らしやすい街」に選ばれるのも大いに納得できる。
メルボルンで暮らした最後の一年間は、私にとっては宝石のようにキラキラと輝いていた日々だった。申請中のビザが発行されれば、メルボルンを出て1800キロ以上離れたクィーンズランド州へ移らなくてはならない。全くゼロからのスタートとなるクィーンズランド州での生活が大変だろうということは容易に想像できた。事前にどんなに心配しても新しい場所での生活が大変だという事に変わりが無いのなら、将来の心配はやめにしてメルボルンに居られる間はメルボルンでの一瞬一瞬を楽しもう。イソップ物語の「アリとキリギリス」のキリギリスのように、来る冬のことは考えず、美しい夏の生活を享受した。
メルボルンのビジネス街で、テイクアウトのコーヒーを片手にスーツ姿で闊歩するビジネスマンやビジネスウーマンと肩を並べてオフィスへ向かうのは、自分もオーストラリア社会の一員になれたような気がして嬉しかった。翻訳の仕事自体は単調作業ではあったが、自分の専門分野の仕事が出来るという事は自信にもつながった。
毎朝会社へ行く前にヨガ教室へ通い、仕事の後にはジャズピアノの教室やパブリックスピーキングのクラブにも参加した。気のおけない友人達とカフェやレストランの探索を楽しみ、お気に入りの本屋、映画館には一人でよく出かけて行った。友達に誘われポールダンスのクラスや屋内ロッククライミングにもチャレンジした。カルチャーの街メルボルンには好奇心を駆り立ててくれる人や物が溢れていて、毎日が新鮮で飽きることが無かった。
学生時代は色恋沙汰と全く無縁だったので、メルボルンに居る間に恋人を作ることを目標に、何人かの男性と会い、デートらしきこともした。残念ながら恋が成就することはなかったが、メルボルンには私と同じ年頃のシングル男性も多く、選択肢は皆無では無かった。
仕事や趣味を通して、心から信頼できる友達も出来た。三年間通ったパブリックスピーキングクラブのメンバー達は、私がメルボルンに残れるように署名をして政府へ懇願すると申し出てくれた。法律事務所のマネージャーも、「Mihoが業務を抜けるのは困ると移民局へ手紙を書く」と言ってくれた。そんなことをしても効果が無いことはわかっていたが、皆の気持ちは涙が出るほど嬉しかった。
2006年12月、申請していたビザが発行された。永住権を取るために自分から申請したビザではあったが、永久にそのビザが出なければよいと思っていた。国外に出られなくても、不安定な状態のままでも、ずっとずっとメルボルンに居たかった。”Most livable city in the world”は、私にとって最高の街だった。
メルボルンを出る日が決まってからは、会社の友達やヨガ仲間、学生時代から続けていた茶道のデモンストレーションを通して仲良くなった人達や、パブリックスピーキングクラブのメンバー等が、それぞれフェアウェルパーティをしてくれた。皆と別れるのが悲しくて、パーティの度に泣いた。
2007年1月、メルボルンを出ていく日、デビーの家から空港までの約一時間のタクシーの中で、私は文字通り泣き続けた。どうしてこんなに好きな街を出ていかなければならないのか、大好きな人たちが沢山居る街を、自分の専門と言える仕事が有る街を、どうして私は一人で出ていかなければならないのか。愛想の悪いインド人の運転手は完全に私を無視してくれたので、私は嗚咽までして泣き続けた。空港が近くなるころにはさすがに涙も出尽くして、そして今度は沸々と怒りが込み上げてきた。「私が一体何をしたっていうの?メルボルンに来て頑張って色々な物を手に入れたのに、全てを捨てて出ていかなければならないなんてひどすぎる。こんなに悲しい思いをして大好きなメルボルンを出て行くのだから、次にメルボルンへ戻ってくる時には今よりも幸せになっていなければ納得いかない!そうじゃないと、こんなに悲しい思いをする意味が無い!私がクィーンズランド州へ行くのは今よりも幸せになるためなんだ。きっと、そうに違いない。そうなんでしょ、神様?!」最後は天に向かって心の中で吠えていた。単純だが「メルボルンへ次に帰ってくる時には、今よりも幸せになっていてやる」と思うと力が湧いてきた。この思いはその後、新しい場所での暮らしの中で踏みとどまる原動力となる。

メルボルンの顔、フリンダース・ストリート駅(Flinders Street Station)。
この駅の時計台は宮崎駿監督の映画のモデルになったとも言われています。
(第4巻158号)




























