早いもので、わたしが翻訳という仕事を始めたのは、もう10年近くも前のことです。翻訳の勉強を始めたのはその数年前、英語の勉強を始めたのは、さらにその数十年前です。そもそもわたしは、いかにして翻訳者になったのか。これまでに通って来た道のあれやこれやを、自分を料理の「素材」になぞらえて書いてみたいと思います。この世に生まれたわたしという「素材」は、親に「下ごしらえ」されたり、本に「加熱」されたり、社会に「かき混ぜられ」たりして、あるときようやく「翻訳者」という料理になります。とある翻訳者ができあがるまでの一例として、気楽にお読み頂ければ幸いです。
第1回 【下ごしらえ編】
英語に漬けられる
日曜の朝はいつも憂鬱だった。
「はじめるぞー」。1階から父の声がする。毎週恒例の、英語のレッスンの時間だ。ひとつ年上の姉とふたりでとぼとぼと階段を下り、父の部屋に向かう。父は製薬会社の特許関連の部署で英語を使う仕事をしており、わたしと姉は物心ついた頃から、週1回、そんな父に英語を教わることが習慣になっていた。

「バナナを英語で言うと?」「バナーナ!」とかなんとか言っていられる幼稚園児のうちはまだよかった。小学生になると、徐々に内容が難しくなる。父は文法から理詰めで教え込むタイプで、小学生にとってはかなりハードルの高い質問をぶつけてきた。
「この"the"は、どんな意味の"the"だ?」「えっ、どんな意味って……その質問ってどんな意味?」と心の中で思っても、そんなことを言えば怒鳴りつけられるので、言わない。間違った答えを言っても怒鳴られるので、それもまずい。だからといって、ずっと黙っているとやっぱり怒声が飛んでくる。そこで苦し紛れに適当な答えを絞り出すわけだが、そんなことで正解できるほど世の中は甘くなく、結局は姉共々、こっぴどく叱られて終わるのが常だった。ときには怒声だけでなく、平手もおまけについてきた。
そんなレッスンが楽しいはずもなかったが、やがて中学校で英語の授業が始まると、これがとんでもなく簡単だった。中学入学から大学卒業に至るまで、英語は常にわたしにとって一番の得意科目となった。さらにはその後イギリスに留学し、やがては英語を使った翻訳という仕事をすることになるのだから、これもみな、あの憂鬱な日曜日のおかげといえばそうなのかもしれない。

もちろん、父のレッスンだけで英語が不自由なくしゃべれるようになったわけでもなく、学校の勉強でもそれなりの苦労はあったわけだが、父が最初に置いたハードルがあまりに高かったおかげで、その後出会った数々のハードルが、やけに低く感じたのは事実だろう。
どうして父は、子どもたちにあれほど厳しく英語を教え込んだのだろう。その理由は尋ねたことがないので残念ながらわからないが、あの憂鬱だった日曜日に、今のわたしは間違いなく感謝している。英語は幼い頃のわたしに、遠い国まで見渡せる目と、新しい響きに敏感な耳をもつための基礎をくれたのだから。それこそが、やがて翻訳者になるわたしという「素材」の、「下ごしらえ」となってくれたに違いないのだから。
(づづく)




























