されど至福のとき ―― 七転び八起き ――
その2 訳書一冊目が発刊されるまで
「翻訳」の世界へといざなわれて最初に始めたのが実務翻訳の日英と英日だった。医学、工学、その他の理系分野を除いた種々雑多なものを依頼されるままに訳し、途中、結婚や出産、子育て(ちなみに私には息子が三人、娘が二人おります)でちょくちょく長期中断はするものの、トータルすればずいぶん長い間、実務翻訳に関わってきたことになる。経済的事情もあって、「いつか必ず一冊の本を訳してみたい」という思いは、人生のずっと先のほうに掲げた夢として温めながら、通信教育などで出版翻訳の勉強を細々と続けていた。常に納期に追われる、待ったなしの実務翻訳は、五人の子持ちの私にとってはかなりきついものがあったが、「いつかきっと出版翻訳を」という夢に支えられていたからこそ、長く続けることが出来たように思う。
忙しく過ぎていく中で月日はどんどん流れていった。そしてある時、私は自分の年齢がかなりのものになっていることに気づいて驚いた。休日返上や夜なべを強いられることも多く、主体的に予定を立てにくい実務翻訳の世界に別れを告げて、出版翻訳に向かって一歩でも二歩でも歩み出さなければ…。結論は出た。実務翻訳を辞めた後、短期間ではあったが英語の専門学校で教えたり、自宅で英語教室を開いたりして楽しい時間を過ごし、転居を機にこれも辞めて、大学予備校の模試作成の仕事についた。一定時間勤務すれば賃金が支払われるというシステムは有難いものだとあらためて思った。帰宅後まで引きずらなくて済むというのはなんという解放感だろう。出版翻訳とて納期に迫られたりはするだろうが、実務翻訳ほど短期ではないはずと勝手な推測をして、希望に胸ふくらませながら、仕事のかたわら、通信教育を再び受講、出版翻訳に向けての勉強を再開した。
そしてついに二〇〇二年秋、私の初めての訳書がめでたく出版刊行された。その原書を手にしてから出版に至るまでの、短いながらも起伏に富んだ紆余曲折。それは客観的にみても、少なからずドラマチックで興味深い話ではないかと思うのでここに書いてみたいと思う。翻訳を志した頃から、私には翻訳家といわれる先生方にどうしても尋ねてみたいことがあった。どんな翻訳家も最初の一冊目の訳書を出すまでは—有名作家や大学教授は別として—無名だったはず、その無名の時にどのようにしてその一冊を出版に結びつけることができたのか、ということを知りたかったのだ。翻訳に関するさまざまな雑誌や本などを見ても、残念ながら、あまりそういった情報は得られなかった。結局、それは人それぞれ、翻訳家の数だけの物語があるのだろうと勝手に結論づけて納得していた。
二〇〇一年の暮れも押し迫ったある日、何気なく立ち寄った新宿の紀伊国屋書店。当然ながら、この何気なく書店に立ち寄った行為が、後に私の訳書を生み出すきっかけになろうとは夢にも思っていなかった。七階の洋書売り場に直行し、居並ぶ洋書たちを見ていた時、あるベストセラー作家の著書に目が止まった。その時すでに、内容が良ければこれを訳してみたいという思いになっていた気がする。その洋書を持ち、レジに行こうとして何気なく視線を上げた瞬間、『あなたも出版翻訳家になれる』という文字がバッと目に飛び込んできた。イカロス出版刊行の出版翻訳志望者向けの雑誌。その日私はこの二冊の本を買い、いそいそと家に持ち帰った。
その洋書の邦訳はまだ出されていないことはわかっていたものの、版権が空いているかどうかは不明だった。にもかかわらず、なぜか私は、年明け早々その洋書の翻訳にとりかかってしまったのだ。私の勤務する編集所での仕事が比較的暇になる時期を逃したくないという気持ちもあったのだろうが、それにしても、あまりに無謀すぎる。もし版権が空いていなければ、せっせと訳しても無駄骨になることなど、一切頭になかったのだろうか。なにしろその頃の私は、先の事など何も考えず、毎日少しずつ訳を積み重ねてはにんまりしていたのだ。私の翻訳空間はたいてい近所の図書館の学習室だったが、仕事が休みで時間にゆとりのある時は、気分を変えて広尾の都立日比谷図書館にも出かけていった。その頃は、図書館で手書きで訳し、あとでまとめて手直ししながらパソコン入力をするという二重手間作業の繰り返し…まるで山登りのようで、はたして頂上にたどり着くのだろうかという不安に襲われることも度々あったが、徐々に一合目、二合目、三合目…と登るにつれ、周囲の景色を愉しむゆとりも出てきた。日比谷図書館は私のお気に入りで、そこにいるだけで何か幸せな気分になる。ある日のこと、その日は仕事も休みで、朝からやって来て翻訳作業に没頭していた。お昼になり、図書館備え付けの食堂に行く。窓から差し込む陽差しが暖かい。おにぎりを食べながら、ふと窓外に目をやると、冬枯れの木立の向こうに青い空があり、枝の先が冬の陽差しを受けてキラキラと輝いている。その瞬間、言いようのない幸福感に見舞われた。誰しもが体験するあのゾクッとする感じである。今にして思えば、それはまさしく、あの高校の図書室で味わった幸福感と同じ種類のものだった。あの日、日比谷図書館の窓から見た小春日和の空の色は今でも心に残っている。
出版されるという何の保証もあてもない私の翻訳山登りはさらに続き、やがて全訳を完了した。それを一通り読んだ夫が言った。「内容がとてもいい。必ず出版されるよ」根拠なき予言だったが、それでも嬉しかった。しかし、実際問題として、それからが大変だった。とんでもない時間を割き、とんでもないことを始めてしまった。どうすればいいのだろう。その時初めて、ことの重大さに気付いて途方に暮れた。これをいったいどこにどういうふうに持って行けばいいのだろう。勉強はすべて通信教育だったので、翻訳学校に通ったこともなく、翻訳界や出版界に知り合いもいない。まるで大海原に向かって木の葉の舟で漕ぎ出して行くような心細さに身のすくむ思いだった。
こうなっては、この洋書と共に購入した『あなたも出版翻訳家になれる』という、そのものズバリのタイトルのついた雑誌に頼るしかない。パラパラとページをめくる。そこには「翻訳出版社完全ガイド」なるものが特集されていて、全部で五十七の出版社が名を連ねていた。持ち込み企画を受け入れているかどうかなどに気を配りながら、ひとつひとつを読んでいくうちに、N出版社の記事に吸い寄せられた。それは、インタビューに答えたN社の社長さんの言葉だった。「訳書がなければ、自分の翻訳が他人の目に触れる機会はほとんどありません。自分の実力が評価される機会を得なければ、いつまでも前に進むことはできないのです。文芸翻訳者になりたいと思うなら、自分を売り込むことも大切です。結果や評価は別として、日本で翻訳されていない作品から、少なくとも四百字詰原稿用紙で五十枚位の翻訳文と翻訳した部分の原書のコピーを出版社に持ち込むのもひとつの方法です(原文のまま)」読み終えてなぜか、「これだ!この出版社だ!」と思った。こうなったらもう行動するしかない。
「企画を持ち込む前に版権の空き状況を押さえておくことが望ましい」と、この雑誌にも書かれていたので、何とかして版権の空き状況を調べたいと思い、大手の版権エージェントは個人の問い合わせには応じてくれないらしいので、個人でやっているところをネットで探し、出てきた電話番号に電話をかけてみた。電話に出た男性に、タイトル、著者、現地の出版社名を伝えると、「あぁ、V社なら管轄のエージェントはXエージェンシーですね。調べて連絡しますよ」とのこと。ところが一日、二日、三日と待っても連絡がない。次第に焦ってくる。ここへ来てやっと、「もし、版権が空いていなかったら…」という、とてつもない恐怖感に襲われ始めた。
そしてある日の昼下がり。ところは多摩センターの小高い丘の上の喫茶店ドトール。私は店の片隅にあるピンクの公衆電話の受話器を握りしめていた。なぜ多摩センターかというと、当時私は編集所に勤めるかたわら、ある大学受験通信講座の添削指導もしていたので、週一回の答案の納品と受け取りに、その日は某社の東京支社がある多摩センターにきていたのだ。時間がゆっくりと流れる多摩センターは私の好きな場所で、何かここへ来ると心が和らぎ、クリエイティブな気持ちになれる。
そういう意味もあって、私は重大な電話をここ多摩センターからかける決心をしていたのだ。まず、数日前に版権を調べてくれると言ったまま音沙汰のない彼がふと言った「V社ならXエージェンシーですね」という言葉をたよりに、Xエージェンシーに電話をかける。「もしもし、あのぅ、あるアメリカの作家のある作品を全訳してしまいまして、その版権が空いているかどうかを調べていただきたいのですが…個人の問い合わせには応じられないと伺ったのですが、やはりだめでしょうか」電話に出た女性はV社担当のPさん。「作者はどなたですか?」「実は邦訳書が昨年からベストセラーになっているオグ・マンディーノです」「タイトルをおっしゃってください」「はい、(タイトル)です」「それでは調べておきます。一時間ほどかかると思いますが」「ありがとうございます。宜しくお願いします」受話器を置く。深呼吸をする。個人の問い合わせなのに答えてくれたことに驚くと同時に、その柔軟性のある対応に感動させられた。
一時間後に電話をするべく、何か幸せな思いでゆったりとコーヒーをすすっていると、携帯に数日音沙汰のなかった版権エージェントの彼からメールが入った。「残念ながら、お問い合わせのありました原書の版権はどこかの出版社が既に取っており、現在出版に向けて準備中とのことです。もっと詳しくお知りになりたければ、この番号に問い合わせてみてください」とあってXエージェンシーの電話番号が記されてあった。「えっ!出版に向けて準備中??」一瞬、頭が真っ白になった。だが、すぐ持ち前の前向き思考も手伝って気を取り直し、「さっきXエージェンシーの人が、まだわからない、調べてみると言っていたのだから、この情報が間違っている可能性もある。さあ、ともかく落ち着かなくちゃ」とブツブツつぶやきながら、彼にはお礼のメールを送って、残りの冷めたコーヒーをすすり、Pさんとの約束の一時間が経過するのを待つ。受話器をとり、Xエージェンシーに再び電話をかけると、先ほどのPさんが出てきた。そしてなんと、「この作品の版権は空いていますよ」と言ったのだ。 ばんざーい!ありがとうございます!ありがとうございます!私は心の中で叫んでいた。
さあ、いよいよ意中の出版社であるN社に電話をする時がやってきた。私は再びドトールのピンクの公衆電話の前に立った。「もしもし、あのぅ、あるアメリカの作家のある作品を全訳してしまったのですが、お送りさせていただいてもよろしいでしょうか」「少々お待ちください」…まずは門前払いじゃなかった、第一関門クリア!と胸をなでおろす。「もしもし」優しそうな女性の声。よかった!先ず作者名を言い、現在版権は空いている旨を伝える。彼女は訳書など今までの私の翻訳経験をさらっと尋ね、「訳書はないんです。実務翻訳をやってきました」と答えると、「あ、わかりました。タイトルは何ですか?」とすぐ本論に。「タイトルを言いますと、翻訳が誰か他の方に回ってしまわないかと心配で…」と本音を言うと、彼女は笑いながら「大丈夫ですよ。私しか見ませんから。私宛に送ってください」と優しく言ってくれた。(彼女はN社の出版物のあとがきなどでよく目にしていたTさんだった)その一言があまりに嬉しく、私は天にも昇る心地で、さっそくその翌日、簡単な自己紹介書を添えてTさん宛に全訳原稿と原書の全コピーを発送した。
数日後、Tさんから嬉しいメールが届く。「訳が読みやすかったので一気に読みましたよ。なかなかいい本ですね。視覚にも訴えますし、心温まる映画を見たような印象ですね。企画会議にかけてみます」 Tさんのこの言葉は、その後ずっと、この本が出版されるまで私の心の支えとなり続けた。一言の励ましの言葉がこんなにも人に自信を与えてくれる。その時のことを思い返すたびに私は、人を褒めて育てることの偉大さについて再認識させられる。この言葉のあとに、「マンディーノでなければ、すんなり通せる気がするが、他社から既刊が出ている点などネックになりそうな部分もあり、確率は五分五分かもしれない」とあり、「もし今回だめでも、そのうち一緒に何かお仕事ができるかもしれないですね」と、締めくくられていた。こうして、たくさんの温かい言葉に勇気づけられて、私の初めての全訳原稿は一歩を踏み出した。
N社で月一回の企画会議が行われるその日、私はまた多摩センターにいた。金曜日、例の答案受け渡しの日だったからだ。朝から低く雲が垂れ込め、気候までが何か重苦しい。まるで受験の合格発表を待つ心境だ。ついにTさんからのメールが入る。「残念ながら、企画会議で通らなかった、他社が既に出したベストセラー作家のものである点がネックとなった」という主旨のものだった。「次の策としては、やはり最初にマンディーノを出したA社に持っていくのが一番いいのではないか」とのアドバイスが続き、さらに「A社にはこちらから紹介しましょうか?それともご自分でやられますか?」とまで書いてある。「ありがとうございます。自分でやってみます」と返信すると、次のメールには、「A社さんにお話する時、私の名を出してくださってもいいですよ」と言葉が添えてあった。彼女の心強い言葉と、そのこまやかな心遣いに背中を押されて、私は百万人の味方を得た思いで駅の公衆電話に向かった。
寒風吹きつける中、多摩センターの駅に向かう広い石畳の道を何かにせかされるように急いだあの時のことは、昨日のことのようにはっきりと思い出される。駅の公衆電話の前にたどり着いた。時刻は既に夕方の五時を過ぎている。受話器をとり、A社に電話をかけた。「はい、A社です」男性の声。「あのぅ、実はオグ・マンディーノの未訳作品を全訳したのですが、見ていただけるでしょうか?」「タイトルは何ですか?」「…タイトルを言いますと、御社で既にこの作者の作品を訳しておられる翻訳者の方に訳が回ってしまうのではないかと…」私はまた同じ言葉を繰り返す。「いや、そういうことはしませんよ。ともかくタイトルがわからないと…。こちらでパスした作品もありますからね」観念してタイトルを言うと、彼は意外にもあっさりと、「私宛に送ってください」と言ってくれた。ばんざーい!と私は再び心の中で叫ぶ。次の瞬間、「あ、簡単な経歴書とこれまでの訳書名などを書いたものも同封してください」と言われ、やはりきたな!と思いながら、「実は私、ずっと実務翻訳をやっておりまして、訳書というのはないのです」と答えると、「あ、そうですか。わかりました。それでは送ってください」との答え。一日中冷たかった風も瞬時にして暖かい春風となった。電話で応対してくださったこのK氏がその後、この本の出版に至るまでの担当者となるのである。
こうして、あてもなく訳し始めた私の全訳ものだったが、その企画はK氏が担当してA社内の企画会議を通し、ややあってA社はこの本の版権を取得した。時は折りしも日韓共催のサッカー・ワールドカップのさなか、スポーツ好きの家族に囲まれて殺気立った中、私は全訳原稿の推敲や校正に忙しい時を過ごし、その年の十月、ついに私の訳書と呼べるもの、オグ・マンディーノ著 『人生は素晴らしいものだ』 がA社から刊行された。思い返せば、何気なく立ち寄った書店での二冊の本との出会いから始まって、自分の力をはるかに超えたところで、さまざまな人々がさまざまな形で、まるで天使のように関わり助けてくれたことによって、この本が生まれたのだ。こんなに長々と書いてしまったのは、その一部始終が私にとっては、奇跡としか言いようのない出会いの連続だったということを伝えたかったからなのかもしれない。当時を思い返すたびに、あの方々はやはり天使だったのではあるまいかと、いまだに私は思うのである。
嬉しいことに本書は二〇〇五年に文庫化された。この訳書に関しての読者レビューをネットで見るのはとても楽しい。ひとつひとつ読むたびに、「この本はこの人に読まれるために世に出たのだなぁ、まがりなりにも原書の良さを伝えられてよかった、頑張ってよかった」と心から思う。





























