入門翻訳勝ち抜き道場

エッセイ:翻訳の現場から

されど至福のとき 七転び八起き

伊藤知子
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プロフィールにもある藤岡宛の「長いメール」がこのエッセイになった。「ことの始まり」「訳書一冊目が発刊されるまで」「二冊目が出せない茨の道—版権を巡る闘い—」の三回連載となったが、ご本人が一番書きたかったことは(二)の部分。「だいぶ長い話ですが、こういう無謀なことをする人もいるのだなぁと、面白く読んでいただければ幸いです」とのメッセージ。まずは「ことの始まり」から。(BOZ記)

その1 ことの始まり

「私はなぜ、『翻訳』という作業が好きなのか」ひとりパソコンに向かい、英語の奥に見えてくる日本語をたぐり寄せては文字にしていると、いつの間にかもろもろの心配ごとは消え去って、頭の中は著者の描こうとしている世界でいっぱいになってくる。まさに「至福のとき」である。翻訳のむずかしさや奥の深さははかり知れず、翻訳者に求められるさまざまな要件を思えば、あらゆる面で不足だらけの自分であるにもかかわらず、翻訳が好きだという気持ちを変えることはできない。もし、翻訳というものに出会っていなかったら……と思うと、あらためて翻訳の神様に感謝したくなる。どうしてこうも翻訳というものの「とりこ」になってしまったのか。遠い昔にさかのぼって考えてみた。

みちのくは仙台のとある女子高校の昼休み。おだやかに冬の陽がさす図書室。ストーブの上のやかんのお湯がチンチンと鳴り、その周りに椅子を並べて、紺色の制服と白いソックス姿のうら若き乙女たちが熱心に本を読んでいる。その中の一人が、大々昔の私。静かさと温かさに包まれながらページをめくり、活字の奥に広がってゆく世界に心はずませ、「なんて幸せなのだろう!この瞬間がこのままずっと続いてほしい……」と思ったあの時のあの幸福感。一冊の本が人にもたらす喜びの大きさを本当の意味で実感した瞬間だ。半世紀近くも前のことなのに、あの時のあの幸せ感は、一枚のスナップ写真のような図書室の風景と共に鮮明によみがえってくる。「一冊の本を訳してみたい」という思いは、この頃めばえていたのかもしれない。

さらに時間をさかのぼって考えていくと、もうひとつ思い当たることがある。それは昨年九十八歳でこの世を去った父と、父よりずっと早く、六十代半ばで亡くなった母が、それぞれの形で、翻訳の世界への最初の道案内をしてくれていたということだ。

父は公務員を定年まで勤め、定年後は電気主任技術者の資格を活用して、八十五歳まで現役で仕事をしていたというがんばり屋であるが、他界する十日ほど前まで、机の前に座り、背筋をぴんと伸ばして高等数学の本を開き、複雑な数式を書き出しては解いていたという生涯勉強の人でもあった。その姿は打ち込むものを持つ人の幸せな後ろ姿として、残された者たちの目にしっかりと焼きついている。文学や哲学を愛し謡曲を趣味としていた父は、よく家族そろっての夕食時に、晩酌をしながら唄うように詩を吟じた。

「落花ぁ〜再び〜枝に帰らずぅ〜破鏡ぅ〜再び〜照らさず〜…この『枝に帰らずぅ〜』がなんともいいんだなぁ…」 「千代の松ぅ〜が枝〜わけい〜でし〜…この『わけい〜でし』 としたところが晩翠のすごいところだ…」

こうした父の夜毎の講釈は、杜甫や李白や漱石やシェークスピアについて、あるいはカントやヘーゲルや…アルキメデスやピタゴラスについてジャンルを問わず果てしなく続く。小学生、中学生、高校生という私を含めた五人の子供たちは、父がほろ酔い加減であるのをいいことに、うんうんと適当にあいづちを打ちながら互いに話をしたり、テレビを見たりしてほとんど聞いていない。父の言葉は単なるBGMと化していたのだが、それでも父は一向にめげることなく、いつも四、五冊の本を抱えて夕食の食卓につき、ほろ酔い講義を続けてくれていたのだ。父が子供たちに伝えたかったことは生涯かけても伝えきれないほどたくさんあったに違いない。もっとよく父の講釈を聞いておけばよかった、もったいなかったとつくづく思う。だがその一方で、うわの空でよく聞いてはいなかったものの、こうして夜毎に流れていた父の言葉の数々が、いつしか私の潜在意識のどこかに浸透していって、「言葉や書物というものへの憧れ」を強めていったのではないかと思うのである。

こうして、どうも父によって目覚めさせられたらしい言葉や書物への憧れは「英語との出会い」によって、より明確な形をとるようになった。私が英語と出会ったのは中学入学前の春休みだが、そのきっかけを作ってくれたのは母である。結婚前は本を読むことが何より好きな文学少女だったという母だが、かまどでご飯をたき、たらいで洗濯をしていた時代に、五人の子供を育てながらの日々はゆっくり読書するひまなどまるでなかったに違いない。そんな母がある日私に言った。中学に入る前に必ず英語を予習しておくようにと。母は当時中学を卒業したばかりの姉に私の家庭教師役を命じ、姉は小学校を卒業したばかりの私に中一の英語の教科書の丸暗記を命じた。好奇心をそそられた私は、面白がって素直にそれに従った。

そうこうしているうちに、いつの間にか英語は、無限の憧れと夢をはこぶ、遠い国への窓として、私を魅了してやまないものとなっていた。高校一年の頃、アメリカはボストンに住むユダヤ系の少女と文通を始めた。その名は、かの『アンネの日記』の著者と同じアンネ・フランク。彼女からの最初のエアメールをポストに見つけた時の感動は、その丸みがかったアンネという文字と共に、今も鮮やかに思い出される。はるか遠くの見知らぬ国に住む人と、英語というひとつの言語を共有することによって、会話が可能になることの不思議さに胸打たれた瞬間だった。時期を逃さぬ母のみごとな助言がなかったら、私はこれほど英語を好きになっていただろうかと、あの春休みを思い出すたびに考える。英語が好きでなければ、翻訳をしたいとは思わなかっただろう。

「私はなぜ、『翻訳』が好きになったのか」という、誰にたずねられたわけでもなく、自分でもあらためて考えることもなかった問いについて考えるうちに、亡き父と母とに思いが至り、心の底が温かくなった。

つづく