入門翻訳勝ち抜き道場

エッセイ:翻訳の現場から

「されど至福のとき」  ―八転びが八起きとなりました―

伊藤知子
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ちょうど3年前の2007年11月、本マガジンに書かせていただいたエッセイ『されど至福のとき 七転び八起き 』の「その3」の最後に「八転びが八起きに?」と題して、こんな文章がつけ加えられている。

「『森の探検』で出会った、借り出し二冊目の洋書が、今出版に向けてよちよち歩きを始めた。企画を持ち込んだ一社目から、約二ヶ月後に「難しい」との返答がきて、すぐ次の出版社に持ち込んだところ、約二週間後、「この企画はなんとか実現するつもりでおります」との返答をいただいたのだ。それはこのエッセイの原稿を提出してから一ヵ月近く後のこと。私にとっての三人目の孫が誕生した翌日のことだった。嬉しさと共に、これから越えていくことになる幾つもの山を思い、身の引き締まる思いになる。街にはクリスマスソングが流れ、ポインセチアの赤が美しい。どんな状況にあっても、希望を持ち続けること、それが大切なのだとあらためて思う。」

このよちよち歩きの洋書が、3年の歳月を経て、2010年11月、『ペラギウス・コード』というタイトルで翻訳出版された。

エッセイの最後に「嬉しさと共に、これから越えていくことになる幾つもの山を思い、身の引きしまる思いになる」とあるが、たしかにそのあとに続いた企画実現に至るまでの道のりは長かった。その長い道をさらに少しさかのぼって、企画書作成の時点からふり返ってみたい。

『洋書の森』でこの原書に出会ったのは2007年3月のこと。企画書を作成し、6月にあるエージェントさんに送ったところ、<内容>の部分が長すぎるので、もっと短縮するようにと言われ、短くまとめてみた。ところが、それだけでは原書のもつ雰囲気がなかなか伝えきれない。彼女に相談すると、<内容詳細>として添付してはどうかとの名案をくださった。そこで、企画書にプラスして、40ページの内容詳細を添付するという形での出発となった。この名案をくださった彼女には今も感謝している。7月に入り、「版権エージェンシーに送付したので、企画が通った場合には連絡します」とのメールが彼女から届く。わくわくする思いでよき知らせを待つ、そんな毎日が始まった。

それから待つこと2ヶ月。はっきりと状況がつかめない中で待つという、そういうことの苦手な私は、ついに待ちきれなくなり、9月の初めに企画書の持ち込みを開始した。持ち込み先として選んだのは、一冊目のとき企画書を最初に持ち込んだA出版社。一冊目の誕生に際して、背中を押してくれた副編集長さんのところである。この方は一冊目の企画がA出版社で通らなかったときに、P社に持っていくようすすめてくれた女性だ(一冊目はこのP社で刊行された)。

2ヶ月ほどのA社内での検討の後に、彼女からの回答が届いたのが2007年11月7日の朝のこと。その回答は、「作品の内容はおもしろく、格調高いなと感心させられたが、経営的事情で検討に時間がかかってしまい、結局残念な結果になってしまった。この本は、翻訳ものの文芸書を手がたく出し続けている出版社にもっていくのがいちばんいいのではないか」というものだった。

一瞬落ち込んだが、まずはコーヒーを入れて気を落ち着かせ、次の策を考える。コーヒーを飲み終えた頃、考えがまとまっていた。それは彼女のアドバイスに従って「翻訳ものの文芸書を手がたく出し続けている出版社」を探すべく、『あなたも出版翻訳家になれる』をめくることだった。一冊目のときにお世話になったイカロス出版2001年刊行の雑誌である。しばらくページが進んだところで、ある出版社の記事に目がとまる。そしてなぜかまた、ここだ、この出版社だ!と思ってしまった。その根拠は、もちろん出している出版物の内容にもあったが、それ以上に、第一編集部部長さんの、翻訳に関してのお話が印象深く、共感させられるものがおおいにあったからだ。

同日夕方、さっそくその出版社に電話をかけてみた。電話に出た女性にだいたいのことを話し、「企画書を送らせていただいてよろしいですか」と尋ねる。電話であらすじなどをいろいろ話しすぎるのは危険と思っていたので、できれば電話はそこでさっと終え、ともかく送らせてほしかったのだが、そうはいかないようで、彼女は「お待ちください」と言って電話を取り次ぎ、上司らしき男性が電話口に。内心焦りつつ表面は落ち着きを装い、なんとか、原書のタイトルや出版社など概要を伝え、「企画書を宅配便でお送りしてもよろしいでしょうか」と切りだすと、「できればメールに添付ファイルで送っていただいたほうがありがたいのですが」と言われる。メールアドレスを教えていただいたところで、あのインタビュー記事の語り手である編集部長さんであることが判明。お礼を述べて電話を終え、企画書と40ページの内容詳細をメールに添付して送信する。5時をまわった頃だった。

6時すぎ、「検討したいので、少々お時間をください」という編集部長さんからの返信がきて、それから約2週間後の11月22日、「この企画はなんとか実現させるつもりでおります」との嬉しい知らせをいただいたのだ。

その嬉しい知らせを受けとった日からさらに3年。出版に至るまでの道のりは長かった。その知らせの前日に生まれた3人目の孫は今日で3才。流れた月日の長さを実感する。その道が長かったのは、「この企画はなんとか実現させる」という部長さんの意志はとても堅かったが、企画会議ではたびたび保留となり、先延ばしとなっていたからだ。古代ローマという時代を舞台にした歴史小説ではあるが、キリスト教色も濃いので、この日本で売れるのかどうかという点が問題になっていたようだ。

3年とは言っても、この期間にはもちろん翻訳に要した時間も入っている。「この企画は実現させるつもり」とのメールをいただいた日から1週間後の2007年11月29日、あの40ページの<内容詳細>にチェックを入れたものが、訳出の際の参考にと送られてきた。私の企画書が届いた後すぐに、原書は入手されたらしく、おもに固有名詞の表記などにチェックが入っていて、かなりの数の漢字がひらがなに修正されていた。「どのくらいで訳了となるか」「はやく全貌をみたいものです」といったメールも、それ以前にいただいていたので、私は喜び勇んで全訳を開始した。物語の舞台である古代ローマへと、想いを馳せる日々の始まりだった。

あくる2008年の3月初めになんとか全訳を提出した。出版の時期が確定しない状況が続く中、原書、訳文ともに全体を読み返して推敲し、訳注などの見直しもして、全訳修正版として再度送ったのは6月の梅雨の頃。そのとき部長さんからいただいたメールは、「今期のうちには必ず出します」というものだった。それからさらに2年半を待つことになろうとは、当然ながら私も、その時点では夢にも思っていなかったわけである。

この待っていた期間、不安がなかったと言えばうそになる。不安解消のためにも、何やかやと理由を作っては、部長さんにメールを送り、さりげなく進展状況を探ったりもしたが、うるさくならないように気をつかった。「必ず出します。もうしばらくお待ちください」という言葉でしめくくられた部長さんからのメールを何度いただいたことか。ひたすらその言葉を信じて待ち続けた。もちろん、ほかにやるべき仕事をしながらではあるが、その間ほかの本を探して訳そうという気にはなれなかったのだ。長い道中、不安の風がどこからともなく吹いてくる日はたくさんあったが、それでもなぜか、「この本は必ずこの出版社から刊行される」という確信のようなものが心のどこかにあって、それが揺らぐことはなかった。

ある日、我が家の郵便受けに一枚のポスターが投げ込まれていた。「希望は失望に終わることはない」という聖書の言葉が、ブルーの背景に白抜きの文字で書いてある。どこかの教会のイースター礼拝のお知らせのようだった。ちょうどその日も、不安の風がそこはかとなく吹いていたので、その言葉はズシンと心に響いた。「希望は失望に終わることは決してないのだよ」と神さまが言ってくれているようで嬉しくなり、さっそくそのポスターを部屋の壁に貼った。

3年はたしかに長かったが、考えてみれば、こういう期間があったからこそ、物語の舞台となる古代ローマという時代にあれこれ思いを馳せたり、あちこち探索したりもできたのだ。また、あの時代に生きた実在の人物ペラギウスと、その劇的な人生、埋もれていた歴史的事実について、自分なりに理解を深めることもできた。私にとってはそれが、この本との出会いがもたらしたものの中で、何より大きな出来事だったように思う。今にして思えば、この3年という期間も、いろいろな意味で、必要不可欠なものだったのかもしれない。

『洋書の森』で『ペラギウス・コード』の原書と出会ったのは2007年3月14日と手帳に記されている。その本は窓からさす春の陽光の中、窓際の細長い机の本立てにひっそりと置かれていた。その姿や、なにげなく手にとった瞬間の印象は、今でも鮮明に憶えている。隣のラウンジで数ページを読み、是非訳してみたいと思った。その原書が今、日本語の本に生まれ変わって、日本の読者に届けられる。この原書との出会いをもたらしてくれた『洋書の森』。この『森』の誕生のために奔走され、今もそれを支えておられる方々に心から感謝したいと思う。

「希望は失望に終わることはない」。どこからともなくやってきたこの小さなポスターの白い文字は、青い空と湖を背景に、今もわが家の壁に貼られている。

2010年11月29日号
(第4巻178号)