入門翻訳勝ち抜き道場

エッセイ:翻訳の現場から

翻訳家になる夢

——少女時代の夢の第一歩がほぼ三五年を経て——
平野和子
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たしか高校二年の時だったと思う。英語の教科書にチャールズ・ディケンズの『デヴィッド・カッパフィールド』のごく一部分が載っていた。面白そうな内容に惹かれて、原作の翻訳本を借りてみた。結構、厚い本だったが、よどみない、こなれた文章であっという間に読み通した。そのうちに、「私もこのように英語の本を訳す人になりたい」という思いがふつふつと沸いてきた。当時、私はトルストイの『アンナ・カレーニナ』とか『戦争と平和』といった長い翻訳書をよく読んでいたが、そのときは感じなかったそのような思いが沸いてきたのは、ほんの一部ながら教科書に出ていた原文と照らし合わせ、その見事な日本語に感動したからかもしれない。


「洋書の森」から生まれた出版契約第2号
(アマゾン価格: 1,426円)

結婚してしばらく経ったころ、夫から会社で出している『世界石油ニュース』の翻訳の手伝いをしてくれないかと頼まれた。私の翻訳歴の始まりである。その後、新聞広告に応募して翻訳会社に登録し、そこから依頼されるままに、主に企業が提携先の外国企業から受け取る文書(その中にはディズニーランドの開設に伴うアトラクションの説明文など、思い出に残るものもあった)の翻訳を育児をこなしながら十年余り続けただろうか。

やがて、訳者名を出さずにただ企業の文書の翻訳をすることにあきたらなくなり、新聞広告で見た翻訳学校の通信教育を受ける決意をした。通信教育を卒業後、そこで募集したワークショップに採用され、ノンフィクションの翻訳の第一人者である鈴木主税先生のもとで、時に下訳をさせていただきながら、翻訳の腕を磨く日々が続いた。傍ら、翻訳会社や学校から回していただく仕事をしているうちに、その力を認めていただいた出版社から、初めて一冊の本を訳してみないかとのお話がきた。こうして出版されたのが『ユダヤ人の歴史』(ミルトス)である。2000年におよぶユダヤ人の歴史を綴った二段組470ページという本で、今だに、われながら、よく訳せたものだと感心するほどの、大部の書である。

一冊の本の翻訳を仕上げ、自分の名が表紙に記された本が店頭に並ぶのを見たときの、ちょっぴり怖いような、わくわくする感激は今もって忘れることができない。少女時代の夢の第一歩がほぼ三五年を経て、叶えられたのである。しかも、この本は週刊誌の書評にも取り上げられ、好評を博した。

その後、鈴木先生のおはからいによる平凡社『テネシー・ウイリアムズ——がけっぷちの人生』や、仕事を紹介していただいたダイヤモンド社(『ハーバード・ビジネス・レヴュー』『競争優位のイノべーション』他)や春秋社から主にビジネス書を出していただいたが、私にとって金字塔ともいえるのは、共産主義崩壊後の東欧諸国のトラウマを描いた、原題“The Haunted Land”、邦題『過去と闘う国々』(新曜社)である。全米図書賞に輝いた原書の強みもあって、この書は五大紙のすべての書評あるいはコラムで紹介され、訳文についても好評をいただくことができた。

今回、一年余りのブランクの後、会員になった「洋書の森」で、レジメを書くために借りていた本“Days that Changed the World”(by Hywel Williams)が出版社(清流出版)の目にとまり、しかもその社長が以前私が仕事をさせていただいていた会社にいらして私の名前を覚えていてくださったという幸運にも恵まれ、翻訳をさせていただくことになった。

サラミスの海戦から9・11の同時多発テロまでの二五年間に起きた五の事件や出来事を描いた歴史書であるだけに、ノンフィクションにとって最も大事な、事実を正しく翻訳するという点で、氏名や地名の表記、時代考証など正確さを求められる作品である。こうした面で苦労している最中だが、少しでもご期待に添える作品に仕上げられるよう努力したいと思っている。