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エッセイ:翻訳の現場から

フランスを食べる その3 オムレツ

林千恵子
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フランスのノルマンディー地方にある観光名所のモン・サン=ミッシェル

屋根裏部屋ではなかったのですが、日本の六階にあたる、とても見晴らしのいいアパートに住んでいました。エレベーターがないので、きれいな曲線を描いて、大げさですが、果てしなく上へ上へと続く螺旋階段を上っていく。階段の途中に、おおきな白いマリア様の彫像が飾ってあります。パリならどこにでもあるアパートです。こうして部屋まで登りつめたなら、疲れはててしまい、もう二度と下に降りたくなくなります。忘れ物などがあるともう、最悪です。でも、お昼に自分の部屋にいると、サンジェルマン・デ・プレ教会の美しい鐘の音が聞こえてきます。そぼくな味の、とてもおいしい「ポワラーヌ」の菓子パンや、いわゆるフランス菓子を口にしながら、パリにいる幸せを実感しながら、街中に響きわたる荘厳な鐘の音を聞くことが大好きでした。

朝にはまいにち、オムレツを作っていたのですが、アパートでは早朝と深夜は食器を洗うことが禁じられていました。部屋を借りてからしばらくたったとき、同じアパートに住んでいる友人が「フランス語だけれど、きちんとよく読んでおいてね。大切なことだから」と張り紙の禁止令のあるのを教えてくれたので、初めて気がついたのでした。

早朝といっても、たしか七時でも駄目だったし、深夜といっても九時にはもう禁止だった思います。理由は騒音をたててはいけないからです。できるだけ規則を守ろうとしたのですが、フランス語の学校があるので、後ろめたさを感じながら洗ってはいけない時間帯に食器を洗っていました。こうした無理な時間帯を設定するなんて、このアパートの住人はいったい、いつ食器を洗っているのかと、ひどく気になりました。フランスでは女性が結婚をしても進んで働く国だと聞いていたのですが、私のアパートのマダム達が本当に外で働いていたのかどうか分かりませんが、ただ、お手伝いさんを雇っている家庭が多かったようです。

階段で買い物かごを持っている人や、小さな子供を遊ばせている人たちと出会うことがあったので、挨拶をしたり、少しおしゃべりをしていたとき、彼女たちがお手伝いさんだと分かりました。そうであれば、食器洗いの時間設定はいつでもいいのでしょう。というか、彼女たちには私の都合を無視した方がいい時間帯だったのです。

いつもアパートは静まりかえっており、どうやらフランス人はとても音に過敏な様子。部屋に可愛らしいキッチンがついていたのですが、ここで卵を掻き回すと妙に音が響くので、居間にもちこんでカラカラやっていました。早朝は夜よりもいっそうと音が大きく響くように思えました。

オムレツは薄片だった

ところで、おいしいラタトーユやカポナータをつくるよりも、表面は焼けていてしっかりと皮がはっているけれども中味は少し半熟のふわふわのオムレツを作る方がはるかにむずかしいようです。フランスには卵料理が豊富で、いろいろなメニューがあります。復活祭の日に欠かすことのできないメニューとしてオムレツがあげられているので、代表的な卵料理といえば、オムレツでしょう。

オムレツは料理オムレツとデザートオムレツに大別されています。さらに料理オムレツには、巻きオムレツ、詰め物オムレツ、平オムレツに分類され、デザートオムレツではリキュールオムレツ、ジャムオムレツ、スフレオムレツ、オムレツシュルプリーズに分類されています。

興味があり、語源を調べてみると、オムレツは「かつては薄く作ったことからlamelle「薄片」に接頭語aをつけて「ナイフの刃」を意味するalumelle、これがameletteとなったのが語源。卵と蜂蜜を混ぜてフライパンで焼いたオワメリタovamellita(mel「蜂蜜」入りの ova「卵」というローマ時代の料理が語源という説もある)」ということがわかりました(『ラルースの料理百科辞典 』、三洋出版貿易株式会社)。フランスのお菓子や食事の作法の進歩はイタリアの影響をかなり受けているので、後者のローマ時代の料理が語源のようです。

『 ラルースの料理百科辞典 』には、オムレツ料理だけで百二十三種類ものレシピが載っていました。たとえばニース風オムレツではトマトやパセリ、アンチョビーなどの食材を使い、デザートオムレツのノルマンディー風オムレツにはりんごやカルバドスのブランデーを使用したりします。その地方の特産物をふんだんに使うようで、とてもおいしそうです。フランス料理とフランス菓子の名門校のコルドンブルーが出版しているお料理の本『フランス料理基礎ノート』(邦訳、文化出版局)にもおいしいレシピが紹介されています。

オムレツから巡礼に

オムレツでどうしても思い浮かぶのはモン・サン=ミッシェルです。この有名な修道院の名物料理もオムレツなのです。モン・サン=ミッシェルを巡って、いろいろな物語が生まれています。幻想文学の傑作といわれるモーパッサンの『オルラ』(Le Horla”、1887)に、お医者さんにかかったけれど、病気が治らず、悪霊にとりつかれたと思った主人公が最後の手段として、モン・サン=ミッシェルに一人で巡礼の旅に出かける話があります。

日本に帰国する前に、フランスで憑いてしまったかもしれない厄を払い落としてから無事帰国できるようにと、『オルラ』の主人公を真似てモン・サン=ミッシェルにお参りに行きました。


天使ミカエルと悪魔が戦った大地

一見、何の変哲もないふつうの緑色の大地なのですが、天使ミカエルと悪魔が戦った大地という解説を聞くと景色が違って見えてきます。サン・マロ湾上に浮かぶ小島です。潮の満ち引きが大きく、満ち潮の時には海にお城が浮かんでいるように見えます。夜はライトアップされて対岸から見るととても幻想的で美しいとのこと。お土産物屋さんで、朝、太陽が高く上っている時、夕暮れ時、夜、引き潮、満ち潮の時など異なるさまざまな姿を見せてくれるモン・サン=ミッシェルの、とても綺麗なポストカードを見つけて、これぞフランス巡礼の記念だ、とすべてのパターンのカードを購入しました。


修道院の中のお土産物屋さん

パリに戻ってくると、京都の霊道を歩いた後と同じ、とてもすがすがしい気持ちになりました。『オルラ』の主人公も巡礼後は「病気が治り、気分が良くなった」といっています。モーパッサンは『モン・サン=ミッシェルの伝説』(1882年)の作品の中で、「山のように大きく、カメオのように細かい彫りのある、そしてモスリンのようにふんわりとしたこの奇怪な宝石」と形容しています。

オムレツから始まったお話ですが、フランスでとても人気の高い観光名所にまつわるいろいろなお話を思い浮かべていると、ますますフランス文学への関心がたかまり、古典ものも現代ものも、もっとたくさんの本を読んでみたいと思うようになりました。


修道院の壁についていたマーク
2008年12月15日号