英国へ移り住んで(1) ギャスケルとマンチェスター

ギャスケルが子供時代を過ごしたナッツフォードの家
イギリス北西部の街マンチェスターはヴィクトリア朝期の女流作家、エリザベス・ギャスケル(1810-1865)を生んだ。ロンドンで生まれながらも、生後13ヶ月で母を亡くし、伯母ハンナに養育されることとなった地チェシャー州のナッツフォード(Knutsford)は「クランフォード」の舞台として、また牧師の夫ウィリアム・ギャスケルとの結婚生活を過ごしたマンチェスターは処女作「メアリー・バートン」をはじめ彼女の作品に影響を与えた。
先日、彼女が結婚後1850年より過ごしたギャスケル・ハウス(84 Plymouth Grove)をとうとう訪問することができた。(以前、訪ねたときは私の調査不足でクローズされており、外観しか見ることができなかった。)ギャスケル・ハウスは月一回、第一日曜日の午後にだけ、ギャスケル協会とマンチェスター・ヒストリック・ビルディング・トラストの方々のご好意により一般公開されている。今回はその様子をお伝えしたい。

当時の家としても相当裕福だったと思われるのだが、彼女が自分の周りの知識階級の友人と比べ、自分のことを貧しいと思っていたらしい。このギャスケル・ハウスは、はじめ賃貸から始まり、のちに購入されたそうである
ギャスケル・ハウス
ドキドキしながら歴史あるギャスケル・ハウスのドアを開けると、レセプションの女性に、(珍しい東洋人が来たものだから!?)『こんにちは! あなたはどれくらいギャスケルのことをご存知かしら?』と尋ねられた。以前からこの建物が気になっていたこと、ディケンズを翻訳された私の師匠(藤岡啓介先生)にもこちらの様子をお伝えしたいのだと伝えた。『だったらこの館は情報満載よ!』と彼女は嬉しそうに微笑んでくれた。元は居間であったかと思われる部屋には、ギャスケルの資料が壁一面に紹介されていた。熱心に読んでいると、その資料を作成した協会の女性を紹介され、いろいろなエピソードを伺うことができた。大変豊富な知識をお持ちのようだった。そして『日本にもギャスケル協会があるわね。日本の方はギャスケルが好きなのね!』とおっしゃられていた。
入室してがっかりしたのだが、ギャスケルの所持品はこのハウスには一切残されていない。建物はもぬけの空なのである。その理由はスライド・ショーを見て明らかになった。なんと、独身を通したギャスケルの娘たち、メタとジュリアの死後、家は競売に、遺品はオークションにかけられたそうである。また以前は牛や鶏が放し飼いにされるほど大きかった敷地も切り売りされてしまい、現在残る土地以外は、再開発が進められていったそうである。そして、競売の後、ギャスケル・ハウスはインターナショナルソサイエティの学生寮としても使われたそうだ。現在マンチェスター・ヒストリック・ビルディング・トラストは230万ポンドの基金を目標に、老朽化が進んだ建物を蘇らせる計画を進行中だそうである。二階建てのうちの一階部分は、当時の様子を再現し、二階部分を事務所にあてるプランだそうである。

ギャスケル・ハウスには彼女の作品が飾られていた
ディケンズとの交流
彼女の代表作「クランフォード」は、チャールズ・ディケンズの雑誌「ハウスホールド・ワーズ(Household Words)」のショートストーリーに1850年に執筆依頼をされたのが始まりで、後に連載は十八ヶ月続いたと記されていた。寄稿されたうちの三分の二の作品が掲載されたそうである。しかし、ディケンズはギャスケルの悲観的なエンディングを好む傾向を嫌い、修正を求めたという。しかし、彼女がいらだち修正しないで送ったところ、かなりディケンズを憤慨させたようである。文句の多い人だったようである(前述の協会の女性はそう教えてくれた)。のちにギャスケルに謝罪の手紙をかいて、再度書いてほしいと依頼したそうである。ディケンズは「北と南」には関心を持ったようでマンチェスターを数回訪問したという。ちなみに「クランフォード」や「北と南」はBBCでテレビドラマ化されている。「クランフォード」のレビューについてはこちらを参照ください。
四人の娘たち
ギャスケルは六人の子供を授かったそうだが、一人目は死産、娘四人、息子ウィリアムがいた。ギャスケル・ハウスには四人の娘たちの顔写真とプロフィールが紹介されていた。
猩紅熱で息子ウイリアム(1844-1845)を早くに亡くしたことが、彼女の作家人生のきっかけとなった。マンチェスターの労働者階級の悲惨さを描いた「メアリー・バートン」は、当初匿名で出版され、当時の特権階級層から非難を呼んだ。
それぞれが個性豊かな娘たちだったようで、長女のマリアン(1834-1920)は、プラクティカルで、ユーモラス、意思決定が早く、画家の次女のエミリー(メタ)(1837-1913)はだらしなく夢身心地の性格だったと記録されていた。三女のフローレンス(1842-1881)はとくに才能があるわけでもなく、神経質だったそうだ。末娘のジュリア(1846生まれ)は、機転が利き賢い子だったそうだ。ギャスケルは湖水地方で夏の休暇を過ごしていたとき、シャーロット・ブロンデと出会うが彼女は五歳だったジュリアにすっかり魅せられたと記録されていた。その後二人は親友となり、シャーロットの死後、伝記を依頼され、「シャーロット・ブロンテの生涯」が生まれる。
ギャスケルの交友関係
ギャスケル・ハウスには、1857年の「Manchester Art Treasures Exhibition」でギャスケルが自分の知人たちの案内役を務めたことが紹介されていた。この博覧会は、ヴィクトリア女王やアルバート公も訪問され、当時国内三番目の規模だったそうだ。彼女のゲストの中には、フローレンス・ナイチンゲール、「アンクル・トムの小屋」 の著者ハリエット・ビーチャー・ストウ、ハーバード大学教授のチャールズ・エリオット・ノートンらが含まれていた。142日間催されたこの博覧会の案内役を務めたギャスケルは友人らに疲労を訴えていたようである。「Elizabeth Gaskell-A Portrait in Letters」(Manchester University Press、2007)には彼女の家族、親戚や友人らにあてた書簡が収録されており、肉声を知ることができる。
晩年
「クランフォード」の舞台となっているナッツフォードは、今も実際に訪ねてみると緑が多く大変美しいところで、ギャスケルも気に入っていたそうである。現在、街の中心部にはギャスケルの記念塔があり、現在の伯母ハンナの家がある通りは「ギャスケル・アベニュー」となっている。対照的に結婚後過ごしたマンチェスターは、いつもグレイで空気が汚く、彼女の安住の地とはならなかったようだ。その反動からか、また夫のワーカホリックを心配してか、ギャスケルはリタイアー用の住処として娘も巻き込みながら秘密裡にハンプシャー州の別荘を購入してしまう。残念ながら未完に終わることとなった「妻と娘」の執筆の頃だ。「妻と娘」はギャスケルの傑作となるが。ギャスケルは相当疲れていたようで、当時の写真からその疲労度が窺える。そして惜しくも、リタイアハウスを享受することなく、この別荘で55歳の生涯を突然終えてしまう。
ギャスケル・ハウスの改修がいつ始まるのかは定かではないが、協会の方の口ぶりではそう先の話でもなさそうである。寄付は大歓迎だそうだ。生まれ変わったギャスケル・ハウスは彼女のファンを一層魅了することだろう。現在、彼女の遺品や原稿の一部は、ジョン・レイランド・ライブラリーに保管されている。彼女の愛用したインク壺は螺鈿細工が施されており大変美しいものだった。マンチェスターを訪問されることがあればぜひ立ち寄ってみてください。

ナッツフォードのシティセンターに1907年に建てられたギャスケル記念塔

ナッツフォードの伯母の家のある通りは「ギャスケル・アヴェニュー」となっている


























