入門翻訳勝ち抜き道場

エッセイ:翻訳の現場から

夢と現実

藤田優里子
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こぼれ落ちてしまった思いを拾い集めて、ことばに

百年たっても色あせない、ことばの城郭を築きたい。心に響く音楽のように、ことばを奏でたい。ことばへの憧憬、それが私の支えであった。

ことばに救われてきた。そう思うとき、決まって浮かぶ光景がある。それは、飼っていた小鳥の死であった。ある朝、えさを与えようと籠をのぞきこんだ私は、冷たくなった小鳥を見つけた。泣くよりも前に、心が凍りつく感覚を覚えた。その感覚は、何度もよみがえっては、幼い私を不安にさせたのだった。

いなくなった小鳥の場所は、なかなか埋まらない。「孤独」ということばを知っていたら、その響きに慰められたのかもしれない。だが、幼すぎた。

目には見えなくても、心の中に生き続ける存在に気づかせてくれたのは、ひとつの童話だった。サン=テグジュペリの『星の王子さま』だ。そこには、次のようなことばがある。

夜になったら、星をながめてね。ぼくの星はとてもちいさくて、
どこにあるのかは教えてあげられない。でも、そのほうがいいんだ。
きみは、このうちのひとつがぼくの星だと思うよね。
そうしたらきっと、どの星をながめても嬉しくなるよ。
星がみんな、きみの友だちなんだから……
――リチャード・ハワードによる英訳より、筆者訳*

これは、命を失うことで星にもどる《王子さま》との別れの場面である。なんと優しいことばだろうか。残されるものに、希望を与えてくれる。

砂漠が美しいのは、どこかに井戸が隠されているから――想像力さえあれば、世界は違って見えてくるのだ。失われたものに対して自分にできるのは、いつまでも記憶にとどめておくことしかない。すぐそばにあっても、意識していなければ存在していないに等しいではないか。忘れてしまいたくないこの思いに、ふさわしいことばを与えたい。そして、永遠に残したい。そう強く願ったとき、ことばの力で救われることを知ったのだと思う。

翻訳をしたいと思ったのは、初めてその原書を読んだときだ。その作品世界を、著者の思いを、自分ならもっとも強く感じられる。自分のことばでそれを表現してみたい。かつて感動を与えてくれた作品に、自分の世界観を重ねたい――なんと傲慢、そしてなんと従順な欲望だろうか。だが、そこまでの気持ちがなければ、心をこめた翻訳は難しいと思う。また、ことばによって世界を構築できるという、強い信念なくしては、最後まで丁寧な訳語を生み出すことも難しいと思う。

私にとって翻訳とは、音楽を演奏するような、ことばの共鳴である。音符をひとつひとつ拾って、自分の音にする。納得いくまで、何度も練習を重ねる。作曲家の背景を理解するため、その生きた時代に思いを馳せ、ときには様々な演奏を聴き比べる。いくつものことばが和音を奏で、ときには不協和音が思いがけない効果を及ぼす。いつの日か、心の琴線に触れる演奏ができるようになるかもしれない。ことばの力を信じているからこそ、魅力を感じている。だからこそ、翻訳の世界に憧れた。

翻訳にとりくんで、いまさらながら自分の無知を思い知らされた。日本語の語彙が貧しい。原語の理解が貧しい。作品の時代背景や、作者の人物像についての知識も少ない。そして、表現力のあまりのつたなさに、これまで培ってきたはずの自分の能力さえ疑ってみた。それでも、翻訳をしたい。自分のことばで奏でたい、その一念しかなかった。

まずは日本語の語彙を増やしたい。だが、語彙はすぐに増えるものではない。これまでの読書量がものをいうはずだ。むしろ、ことばを思い起こすために、何をすればよいのかを考えた。常にことばに接することができるよう、好きな分野にしぼってみる。中原中也などの詩集を読む。詩人の磨きぬかれたことばには、緊張感がある。万葉集などの古典、短歌や俳句を読む。声に出して読むことで、古語のリズムを感じることができた。国語辞典や類語辞典など、いつも手元において、すぐに調べる。だが、知らないことば、使い慣れないことばは使わない。そして、能楽や歌舞伎、邦楽などの古典芸能を鑑賞する。日本のものでも時代が異なれば、理解するには幅広い知識や教養が必要だ。名作・名訳を数多く読む。よい話し手の講演を聴く。思いつく限り、何でもしたのだった。

なかでも能楽は、いつまでも観ていたいと思わせられた。囃子にのせて、謡曲がうたわれ、そのことばのひとつひとつが音楽的で美しい。ひとつのことばがいくつもの意味を仄めかし、韻律にのって大きなうねりを創りだす。このような翻訳ができたら、ことばが綴れたらどんなにすばらしいだろうか。「日本には長い詩がない。日本の詩はみんな三十一音節とか、十七音節くらいの短いものが主であると思っていた。ところが、日本にはすばらしい長詩がある。それは謡曲である」これは、ドナルド・キーン氏が能楽を評したことばである。あの舞台の緊張感は、詩であるがため生まれたものだったのか。ピーンと張り詰めた空気、吟味されたことば、波のように打ち寄せる高鳴り、すべてが詩と思えば合点がいった。

中原中也に「サーカス」という詩がある。この寂寥とした詩世界に、私は打たれた。真っ暗な夜空に、サーカス小屋の灯がぼんやりと点り、曲芸師がブランコに揺れている。ただ揺れている。まるで、自分のようではないか。この感動を共有したいと思い、当時留学していた韓国で、皆に披露した。だが、私のことばは届かなかった。それはドイツでも、フランスでも、きっと同じことだったろう。異文化間のどうしても埋まらない溝とでもいおうか、伝えようにも、伝えられない想念、日本語の響きに負う感動というものがある。その逆も然りだろう。

こうして翻訳者を志したが、壁はいくつもある。それを乗り越える力となったのは、「ことばへの憧憬」である。なぜそれほどまでに、ことばに執着するのか。それは、ことばが私を支えてきてくれたからにほかならない。ことばには力があるのだ。谷川俊太郎に、「朝のかたち」という詩がある。そこには、次のように記されている。

からだの中に
いかなる比喩も語れぬものがあり
言葉はそれ故に記される
「からだの中に」より――『朝のかたち』(角川文庫)

この詩を読んだとき、私が感じてきたことは、暗闇に置き去りにされた石ころではなかった、と光が射した。捨てようとして捨て切れなかったこだわりが、輝きを秘めた原石に変わった。それでも、私の感じた世界は違う。別のことばがあるはずだ。それを何とか生み出す。自分のために、そして、誰かのために、もしかすると、ただことばのために。

ことばとは完全なものではない。ことばでは満たされない何かを求めて、人は音楽を作り、絵を描き、あらゆる手段を使って表現する。それでも私は、ことばで表現していくことを選んだ。今まで過ごしてきた時間から、こぼれ落ちてしまった思いを拾い集めたい。忘れてしまいそうな思いに形を与えたい。先人たちの作品から滋養を汲み、自らの知りえた何かを残すという、大きな流れに身をおきたい。

夢と呼ぶにはあまりに熾烈な営みだが、そこには大きな喜びがある。 ことばを生み出す喜び、それは何ものにもかえがたい。

人は旅に出て、己が持っていたものを持ち帰ってくる

人ごみの中、立ち止まってふと思う。見慣れた風景、いつもと変わらない空気、まわりでは人びとがすれ違っていく。この瞬間に、私に感じられるのは、周囲半径一メートルほどしかない。しかも、この一メートルほどの空間を感じていても、理解できることはほんのわずかだけなのだ。

知っているふりをするのはたやすい。映像として記憶するのも易しい。だが、それにいったい何の意味があるのだろう。再現しても、それはただの映像に過ぎない。無声映画のように、ただ流れていくだけだ。記憶とは曖昧なもの。自分に都合のいい勝手な意味合いをこじつけて、真実だと信じてしまう。

それがものではなく、人の心についてであれば、理解しているとはなおさらいえない。言葉で誓い合っても、一緒に暮らしても、やはり私は独りなのだと空しくなることもあるのだ。何ごとであれ、実際に体験しなくてはわからないという人もいるけれど、それはほんとうだろうか。実体験があっても、何も見えていない人は大勢いる。

本当に知っていることは多くない——それがわかっているからこそ、誰もがぎりぎりのところで踏みとどまって、理解しえない実像と虚像との、その隙間を埋めようとしているのだとも思う。そして、何かをつかもうともがくほど、混沌の深みにはまっていくのである。

いくつかの国をめぐったことがある。

コルシカ島を訪れた。民族主義運動が台頭するなか、道の端には活動家たちが結んだ独立旗がたなびいている。ナポレオンに思いを馳せつつ、アジャクシオからボニファシオ、山岳地域を気の向くままにドライブした。小道から豚の親子が飛び出して、あわや衝突かという場面もあったが、穏やかな風土だった。その翌年には知事が暗殺されて、剣呑な情勢になってしまった。

モン・サンミッシェルを訪れた。潮の干満の差がとても激しく、かつて修道院への巡礼者があっという間に波に飲まれてしまったという。それを見たくて待つこと数時間、津波が押し寄せるように、波が周囲を渦巻いた。

ドイツを訪れた。その年はいつにない厳冬で、最寄りのボン駅では七人のホームレスが死んだ。ニュースを聞いて駅に行くが、そこは普段と変わらない、日常の風景であった。私も本屋に本を受け取りにいき、いつものカフェでミルヒカフェを注文した。

イスラエルを訪れた。彼の地では夜になると西風が吹く。死海に浮かんでみたらヨルダンまで流されてしまいそうだった。青白い月がきれいだった。

パリを訪れた。パリの地下鉄には、毎日顔を合わせる、お気に入りの歌い手がいた。つぶれた声でトム・ウエイツを歌う。十フラン硬貨を手渡すと、いつも何もいわずに次の車両へ移っていく。

だが、どこを旅しても期待するほどに大きな変化を感じなかった。
「どこに行っても同じように人がいて、その地での生活がある。私たちとそれほど変わらないではないか」

その土地の歴史や文化に触れることは興味深い。すさまじい自然の中で、人間というささやかな存在を感じるのも心地よい。気持ちが大きく揺さぶられたこともある。だが、私は自分になにか大きな変化が訪れることを期待していたのだ。それでも何も起こらなかった。
「人は旅に出て、己の持っていたものを持ち帰ってくる」とはゲーテの言葉だ。私はいったい何を持ち帰ってきたのだろうと覗き込んでみたが、見慣れた風景が広がっているばかりだった。少しは期待もあっただけに、がっかりする。そのつかみどころのなさに、うんざりしてしまう。

外国に住み、その地に馴染んで初めて、他にない母国のよさに気づくことがある。そして、今までなおざりにしてきた自分の国の文化が急にいとおしくなる。いつもは母国の欠点ばかりが目につくのに、いざ他人からそれを指摘されようものなら、いてもたってもいられなくなる。それは、身内のものへの思いにも似ている。

それならば、他人の風景を知れば、自分の内に見た風景がかけがえのないものと気づけるのか。そして、自分にしかない何かをいとおしく思えるようになるのだろうか。

本を読むという行為は、自分を鏡に映しだすことだろう。小説は人の心の一部始終を、まるで走馬灯のように見せてくれる。たった数百グラムほどの本に人の一生が収まっている。しかし、鏡に映し出されるものは、読み手の力量に比例するのだ。映しそこない、見逃している映像があっても、気づくことはできない。しかも、鏡に映し出された姿が正しいと確かめるすべもない。それでも、本を読み続ける。なぜか。ただ面白いからか。それより、なにかに急き立てられるように、ページをめくってしまうというほうが近いと思う。他人の風景を見たい。そして自分の風景を知りたい。そこに答えはないとわかっていても、やめられない。虚構の世界で、人の真実の姿という幻想を見ているだけかもしれないのに。

何十億もの人びとがいても、深く交わることができるのは、ほんの数人だ。どこにでもある最大公約数的な情報はいらない。自分で見て聞いて感じたことだけを頼りに、自分の実感というものを確かにしたかった。人との関わりに処世術はいらないだろう。妙なやつと思われようが、自分の思いはぶつけてきた。風当たりの強いときもあったし、打ちのめされたこともある。その分、自分ほど幸せなものはないという思いもした。人の優しさに触れて、すっと肩の力が抜けることもあった。今、私には自分にしかわからない実感があると確信できる。これだけは理解できるといういくつかのことが。それは、私がいちばん欲しかったものである。

その実感を頼りに本を選び、知っていることだけを書いていけたらいいと思う。

対岸が霞むほどの大河の底にひそむもの

人はときに、ある感情に支配されてしまうことがある。どんなに振り払おうとしても、自然に湧いてくる感情はどうすることもできない。そんなときは、時の流れにまかせてみる。その感情を直視して、味わううちに徐々に変化していく。反芻するといってもいい。少しずつ熟成されて別のものに変わっていく。あれほどに激しかった憎しみ、感動がなにやら懐かしく切ないものに形を変えていくのだ。小説を読みながら、こう思うことがある。この著者もきっと手に負えない感情をもてあましていたに違いない、と。そして物語という形にして、自分の物思いに決着をつけるさまをとても格好良く感じるのだ。

感情というものを素直に表現するのは簡単なことではない。だが、時間をかけて熟成させた思いというのは、いつまでも心に残り、よい影響を与えてくれるようにも思う。大きな心の揺れを、人にぶつけるわけでもなく、何か別のものに転嫁するわけでもない。だが、幾重にもベールに包まれた「思い」は、なかなかに本心を覗かせてくれない。本を読むことが、人の心を紐解く暗号読解のようにも感じられる。

しかし、なんと人の心の読めないことか。

誤解をおそれて思うことを口に出さない人がいる。それが大人のたしなみと、そっと胸にしまう人もいる。ひどい傷跡が残っていても、それを外からはうかがい知れないこともあるだろう。気づかぬうちに、触れてしまっているのではないかと不安になることもある。ときには、傷のありかまで探し当てられるほどに、近しい人に出会えることもあるが、めったにあることではない。

無意識のときは、始末に負えない。ドイツでのこと、「ボンでの暮らしはどうですか」と知人にたずねたことがあった。すると彼女は、イスラエル人だから難しい面もあるが、生活にも慣れて楽しい、とユダヤの歴史を交えながらいろいろ語ってくれた。慣れない土地で大変だろうと思っただけだったが、彼女にとってはまったく別のことも意味していたのだった。人の心の敏感な部分に触れてしまったという、いたたまれない思いをした。

ドイツ人の友人と、ナチス批判映画を観にいったことがある。誘い、誘われ、内容も承知の上であったが、鑑賞後、彼女の表情はかたかった。かける言葉もなく、ただ黙々と二人して歩いて帰ってきたことを覚えている。カフェで落ち着いて映画批評になったが、ふとドイツ人の多くがナチス党員だったという、当たり前の事実を思い出していた。彼女はただ、すべてを知りたいのだ、と言うばかりであったが。

普段の何気ない生活の中でも、きれいに取り繕った表面の下では、激しい感情が渦巻いている。嫉妬や憎悪、軽蔑や自己満足、受け入れやすい感情ばかりではない——そんなことを考えていると、この世には妖怪が蠢いているのではないかとも思えてくる。

だが人の一生とは、ほんとうに儚いものだ。たった百年という歳月であっても、今ここにいる人びとはすべて消えて、時代も変わってしまう。この短い時間の中で、みなが精一杯生き、蠢いているのだと思うと、何とも哀しい気持ちになってくる。私にとって、感情をかきみだすものは「人」だったし、人とは煩わしいものである。だが、大きな喜びを与えてくれるのも、支えてくれるのも、同じく「人」なのだ。

中学時代、吹奏楽部で楽器を演奏していた。秋の全日本コンクールを目指して、日夜練習に明け暮れていたが、あるとき指導の教師が話してくれた。楽器をもってまもない中学生たちが全身全霊をこめた演奏を聴いて身震いがした、と。そういう感動もあるのだ、と思った。教師ならではの視線だ。ミスをしないで、全国大会で勝とうと練習を重ねていたとき、この言葉がとても温かく感じられた。

後になっても、この話をよく思い出した。何かを成し遂げようと、なりふりかまわずに、夢を追いかける人々がいる。あらゆる手段を講じて、一歩でも先へ進もうと努力をおしまない。たとえば、演奏家、作家、研究者など、彼らは芸術家気質とも、自己本位であるともいわれるだろう。翻訳者もその仲間だろうか。だが、ひとつの作品を創り上げようとする精神の集中、そこに濃縮された時間は、感動に値するのではないかとも思う。

澄んだ水に魚は住まない。濁っているからこそ、数々のドラマが生まれる。インドの大河にはさまざまなものが流れていた。たくさんの牛が水浴びをしていたし、人びとも水を汲みにやってきていた。対岸が霞むほどの大河の底には、なにが転がっているのだろう。すべてを飲み込んで流れる河は、人に似ていなくもない。たとえ妖怪であろうが、目を背けたくはない。できることなら優しいまなざしを持ちつづけていたいと思わずにいられない。

これが翻訳で小説を訳すとなると、生半可な気持ちでは太刀打ちできない。相手とする著者は百戦錬磨の策士なのだから。しかも人の心を扱うエキスパートでもあるのだ。

『暗号解読』(サイモン・シン)に詳しいが、暗号解読はコンピューターを含む、論理的思考と、想像力の賜物である。エジプトの古代文字ヒエログリフやロゼッタストーンに書かれた文字の意味を解読するのは、どんなに心躍る作業だろう。それまで誰も知らなかった新しい意味体系が見出されるのだ。それと似た要素が、翻訳にはあると思う。ただ言葉を移し変えるだけではなく、著者のしくんだ仕掛けをどれだけ紐解くことができるか、著者が見出した新しい小説世界をどこまで理解できるか。行間を読むとはそういうことではないだろうか。

「言葉とぶつかり、人とぶつかりながら翻訳をしてきた」

これは、ある翻訳家の述懐だが、とても勇気づけられる。人の心と同様に、小説というものも簡単には理解できない。翻訳は「著者との一騎打ち」との励ましがあっても、ときには太刀打ちできず、逃げ出したくなる。だが何度でもぶつかってみればよいのだ。納得できるまで、いろいろな姿勢で、方法でやってみる。著者が在命なら実際にぶつかることもできる。ときには編集者やまわりの人びと、いろいろな人とぶつかることもある。そして、言葉とぶつかる。ほんとうにふさわしいと思える表現が見つかるまで、何度でもぶつかってみる。それでいいのである。

ことに通じているということは、翻訳をするための十分条件ではない。翻訳をするということは、新しい世界を切り開き、なにかを持ち帰って還元するというダイナミックな相互作用があるのだ。

新しい世界を知りたい、深い場所にたどりつきたいという気持ちが大切である。


* 英訳は次のようになっています。〝At night, you’ll look up at the stars. It’s too small, where I live, for me to show you where my star is. It’s better that way. My star will be…one of the stars, for you. So you’ll like looking at all of them. They’ll all be your friends.〝
“The Little Prince” (by Antoine de Saint-Exupérytranslated by Richard Howard)