人生は想定外---私がロシアに行ったわけ(その3)
二〇〇一年九月十一日同時多発テロ事件が起きたときに、私の心に浮かんだのは、『水源』の第三部で、メディア王のゲイル・ワイナンド(また彼の登場です・・・主人公はハワード・ロークなのに)が語る、以下の言葉でした。
「ニューヨークの高層建築物が空を背景にしたシルエットを見せるために、世界で最高の夕焼けを用意できたらいいなあ。特に、もう細かいところが見えなくなるような夕闇迫る頃のマンハッタンに。高層ビル群の形、輪郭だけが見える頃にね。ニューヨークの街の景観を作った形と人間の思考。ニューヨークの上空に広がる空と、目に見える形となった人間の思考。あの高層ビル群は人間の思考の大いなる産物です・・・<中略>・・・もし、戦争でも起きて、この街が危機にさらされるようなことになったのならば、私は空に飛び出して、私の体で、あの街を、あの高層ビル群を守りたいと思います」(『水源』ビジネス社、p.640)
この事件は、「どこで爆破されてもおかしくない世の中になったな。いつ、どこで死んでも悔いがないように生きなければいけない!」という、ついつい忘れがちになる心構えを、あらためて私に認識させました。
サンクト・ペテルブルクの街はアトラス像だらけです。
建造物の屋根を直立して支えています。
青春のアトラスです。まれに女性のアトラス像もあります。
ともあれ、アイン・ランドを知ってから私の人生は変わりました。彼女の思想を理解するためには、政治哲学や経済学やユダヤ人問題やロシアに関する知識が必要です。私の読書の幅は格段に広がり、視野も格段に広がりました。初めて私は「学問の面白さ」を、ほんとうに知ったようでした。「これで死ぬまで退屈しないですむな」と思うと、私の心は晴れ晴れと希望に満ちました。
二〇〇一年の初夏に『水源』の翻訳を本格的に始め、終えたのは二〇〇三年の五月の連休中でした。「ふんばりどき」とか「正念場」という時期が、誰の人生にも何度かは訪れるのでしょう。なぜかあの時期には、職場においても学会関係においても、仕事が激増しました。あの二年間の私は、空前絶後に多忙でした。
翻訳作業ができるのは、週末と休暇期間しかありませんでした。休日はいぎたなく眠りほうけるのが常であった私が、早朝からパソコンの前に座って、キーボードをチャカチャカ操作しているのでした。あの二年間の私は、空前絶後に勤勉でした。
『水源』の第四部で、主人公のハワード・ロークが、ゲイル・ワイナンドに「あなたとの出会いは、僕の人生で二度と得ることはできないような、そんな出会いでした」(p.968)と語る場面があります。アイン・ランドのThe Fountainheadとの遭遇は、「私の人生で二度と得ることができないような出会い」ですから、翻訳作業は楽しいものでした。翻訳をしているときは、マンハッタンを歩いているような気分になりました。街路や舗道やビルや地下鉄の階段の匂いを感じました。
翻訳を終えたときは、寂しさを感じました。長い長い幸福な夢から醒めて、現実に引き戻されたような気持ちになりました。多忙なハードな日々の中で、『水源』の翻訳をすることが、私にとって大きな支えであり、慰めだったことに気がつきました。
校正作業は一年間かかりました。校正には、念には念をいれて、時間とエネルギーを惜しまないというのが、あるべき姿勢ではありますが、読み直すたびに誤訳や誤字脱字を発見してキリがありません。見切り発車をして、二〇〇四年の七月に出版していただきました(しかし、もう半年を校正に費やすべきだったと今は思っています)。
二〇〇四年十月には、アイン・ランドのもうひとつの代表作であるAtlas Shrugged(1957)の翻訳『肩をすくめるアトラス』が脇坂あゆみさんの訳で出版されました。私は、二〇〇一年の八月にアイン・ランドの墓前で誓ったことを実行に移すことにしました。The FountainheadとAtlas Shruggedの翻訳書を墓前に捧げるという約束です。
二〇〇五年二月に、ゼミの学生や社会人聴講生の方々や昔の教え子と夫と私の計十四名は、「アイン・ランド生誕100年記念&翻訳出版記念墓参ツアー」と命名したニューヨーク旅行に出かけました。アイン・ランドがソ連を去り、大西洋を渡り、エリス島での入国審査を通過して、マンハッタンに上陸したのが一九二六年二月十九日でしたが、奇しくも私たちの一行が墓参したのが、その二月十九日でした。
二〇〇五年四月最後の週末に、マンハッタンの某ホテルで、アイン・ランドの遺稿管理機関であるThe Ayn Rand Institute主催のAyn Rand Centennial Conferenceが開かれました。その会場には、学生や、会社員っぽい人や、専門職っぽい人や、ビジネスマン風とか、老若男女いろいろな人々(アジア系やアフリカ系は極端に少数でしたが)が出席していました。その人々の「感じ」には、共通のものがありました。生真面目で不器用なくらいにマイペースで、無造作で飾り気がなくて物静かで、無駄口はたたかないが率直明快で、ちょっと無骨な感じ。粋な洒落者など誰もいません。「やっぱり、アイン・ランドの愛読者は、アイン・ランドっぽい!この人たちは私のソウルメイトだ」と、私の感慨は大きかったです。
次にするべきことは、アイン・ランドの故郷であるロシアに行くことです。人生を決定的に変えてくれた人の生まれた街は見たいに決まっています。しかし、問題がひとつありました。ソ連時代のロシアのトイレはすさまじく汚かったそうです。ならば、今のロシアも? 私は何よりも汚いトイレが怖いのです。さんざん迷い恐れましたが、どうしてもアイン・ランドの生まれた街を見たくてたまりません。決死の覚悟で、二〇〇五年の九月上旬にアイン・ランドの故郷サンクト・ペテルブルクに出発しました。
モスクワで国内線に乗り換えてサンクト・ペテルブルクに着くまでの間、とても不思議でした。初めて来たような気がしません。そっけなく愛想のないロシアの女性たちに、奇妙に親近感がわきます。空の色も空気の匂いも木々の姿も、眼にするものすべてに違和感がありません。個人海外旅行では無意味に無駄に神経質で過剰警戒態勢になりがちな私が、とてもリラックスしています。問題のトイレも、ほぼ問題なしでした。
サンクト・ペテルブルクでは、日本語ができるロシア人ガイドさんを、前もってお願いしてありましたが、観光旅行などする気はありません。アイン・ランドの生まれたアパートメント、通った女学校、卒業した国立サンクト・ペテルブルク大学に、渡米前まで住んでいたアパートメントなどに行くつもりでした。相場以上の謝礼をお渡しする気は満々です。
私が出会ったガイドさんは、アイン・ランドの母校の大学の日本語科の助教授で、アルバイトで観光ガイドをなさっている方でした。御専門は、江戸時代の三大改革で、日本にも留学なさったことがあるそうです。アイン・ランドのことはご存知なかったのですが、パソコンですぐに検索してくださいました。ロシアでも、ちゃんとアイン・ランドの読者がいて、デジタル版海賊版ですが翻訳も出ていました! 願ったりかなったりの方に出会えた幸運に、私は感謝しました。
アメリカで出版されたアイン・ランドの小伝に書かれていた彼女の生誕地の住所が間違っていたので、彼女が生まれた建物を探すのは大変でした。ガイドさんは、しかし、手を尽くして、探し当ててくださいました。一九〇五年にランドが生まれたアパートメントは、現在でもちゃんと残っているのです。アイン・ランドがあれほど憎んだソ連の社会主義体制のおかげで、慢性的物資不足のおかげで、一九〇五年当時の建物も壊されずに、ちゃんと利用されてきたので、私は彼女の生まれた場所にたどり着くことができました。少女時代に住んでいたビルも健在でした。ただ、女学校だけは、ブルジョワのお嬢さん学校だったせいか、革命後に廃校になったのでしょうか、跡形もなく消えていました。
サンクト・ペテルブルクの街に来て、私は、アイン・ランドがニューヨークはマンハッタンをこよなく愛した理由がわかりました。このロシアの古都と現代アメリカのメッカは、非常によく似ています。街の基調が似ています。どちらも自然に発展した街ではありません。人間の意志とヴィジョンを前提として構築され、その素晴らしい景観ができあがった街です。アイン・ランドは、The Fountainhead やAtlas Shruggedにおいてニューヨークを描きながら、同時に故郷のサンクト・ペテルブルクをも描いていたのです。
サンクト・ペテルブルクの街を縫って流れるネヴァ河巡航の船のデッキから、川風に吹かれながら街を眺める私の目は、何度も涙でかすみそうになりました。四十七歳でアイン・ランドに出会ったことは、私の人生において想定外のことでした。そのために私の人生が変わったことも想定外。『水源』の翻訳と出版も想定外。ロシアに来たのも想定外。こんな幸福な想定外が続いたのだから、もう何も言うことはない。せいっぱい生きていけばいいんだ、それでいいんだ、何も恐れることはないんだ、と私は自分に言いきかせました。





























