入門翻訳勝ち抜き道場
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12月1日号
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エッセー:翻訳の現場から

人生は想定外---私がロシアに行ったわけ(その1)

藤森かよこ
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私のような者が、プロフェッショナルな翻訳者の方々が読み寄稿する、きちんとしたウエッブ・マガジンに掲載されるにふさわしいことを書けるのか、かなり疑問です。ではありますが、「翻訳者になる気はまったくなかったのですが、そうならざるをえないような<出会い>もありますね」という例として、書かせていただきます。

翻訳は、実に、社会福祉的慈善事業的博愛的作業です。労多くして益は少ないです。大量の外国語文を、やっとこさ大量の日本文にして、出版できても、読者は翻訳者の名前など覚えていません。読者が、翻訳者に意識的になるのは、「翻訳がさ~まずいんだよね~」と批判するときでしょう。

昨今の匿名Blogの氾濫が示すように、自らの名前を出さず批判悪口を書き散らし公開する行為は、恥ずかしくも卑しいこととして、日本では認識されておりません。無駄口をたたくこと=口に出す必要もない批判を無責任に繰り出すことを、「知的なこと」と勘違いしている人間が多いです。21世紀にもなって、外国語のひとつもできないくせに、自分の読解力のなさを翻訳者のせいにしている者も、きわめて多いです。文句があるのならば、原書で読め!原書で読めないような無知蒙昧な馬鹿は、翻訳書があることを感謝して、素直に読め!自分の実名を明らかにして批判できないのならば、黙ってろ!

何を私が言いたいかといえば、つまり、翻訳という仕事は割に合わないということなのです。しかし、その割のあわない作業を切望することに、私はなってしまいました。人生って、ほんとうに想定外です。

ただし、私は、アイン・ランド(Ayn Rand:1915-82)という、日本では無名のユダヤ系ロシア系アメリカ人女性作家兼思想家の著作しか翻訳する気がありません。なぜならば、この女性の書いたものの内容の善き本質を、きちんと伝えることができる翻訳は、私にしかできないと、思い込んでいるからです。他の翻訳者だと、ろくなことにならない、この作家の思想が歪んで伝えられるかもしれないと、危惧しているからです。それでは、アイン・ランドが可愛そうだ!と、切迫感を持って思うからです。

不思議です。私は、きわめて熱い心の持ち主ではありますが、執着心は薄い人間です。「さばさばしすぎて、寂しい」と言われたことがある人間です。ところが、アイン・ランドだけは、他の人間に任せることができません。

はたから見れば、アホな思い込みです。そのように激しく深く思い込み、ついには、アイン・ランドの故郷のロシアまで行ってきました。私は、冷戦時代に育った人間です。子どものころは、世界地図帳を広げて、「こいつらがいるから、日本は危ないんだ!」と、ソ連と中国を黒く塗りつぶしました。ロシア(ソ連)に行くなどということは全く思いもしないことでした。なのに、2回も行ってしまいました。

私は、ガキの頃から、将来像は「金持ちの家の専業主婦となって遊んで暮らす」でありました。しかし、高校3年生の夏に、自分の容姿の水準が「玉の輿」に乗るような類のものではないと、現実を直視しました。しかし、他人の稼いだ金の範囲でやりくりする「普通の専業主婦」になるには、私は性格が大雑把でいい加減すぎます。じゃあ、「自立」するしかないよなと、遅ればせながら受験勉強を始めました。

私は1953年生まれです。私が大学生の頃の名古屋では、「25歳前に嫁に行くのがあたりまえ」の時代でした。地元の放送局の女性社員は「25歳が定年」でした。そういう環境ですと、自分で稼いで生きていくとなると、「教員」しか頭に浮かびませんでした。弁護士とか医者とか科学者とかいう選択肢は、凡庸な頭の持ち主には、問題外です。

進学先は、唯一合格できた地元の名古屋市の南山大学の文学部英語学英文学科でした。好きな科目で、かつ得意だったのは、「倫理社会」とか「世界史」とか「日本史」の類でしたが、歴史とかの社会科系科目は、時代や政治状況で、デタラメを教えるはめになりがちです。英語ならば、左翼だろうが右翼だろうが皇国史観だろうが、英語を教えればいいのだから、英文科でいいじゃない~~♪という判断です。

南山大学は、キャンパスが名古屋離れしてヨーロッパ風なところが好きでした。美術部と文学研究会とパンセの会(パスカルの『パンセ』を読む会)に所属して、本は読むが勉強はしないという、1970年代の地方の平凡な女子学生の平凡な大学生活でした。1974年の夏休みに、アメリカに初めて行きました。ニクソン大統領弾劾のデモを、カリフォルニアはバークレイで見物しました。

教員になるつもりが、愛知県の高校教員採用試験に落ちました。ついでに必修科目の単位が1単位足りなくて留年しました。理由は、無用心と不注意と怠惰です。あまりにアホらしくて嘆く気にもなりませんでした。それでも、卒業前から決まっていた高校の非常勤講師の仕事はできました。高校の現場を体験して、高校教員になる気持ちが萎えました。さて、どうするか。

本を読んで食ってゆけるラクな仕事ってないのか?大学の教員は暇そうでいいなあと思いました。「大学のセンセイ」になるには、どうしたらいいのか?大学院に進学すればいいそうです。ですから、母校の大学院の修士課程英米文学専攻に進学しました。例によって、実に安易です。

当時の私は、言語道断支離滅裂なほどに無知で情報不足でした。何よりも、「大学のセンセイ」が「研究者」「学者」であるということを、私はわかっていませんでした。研究?私に、研究したいことがあるはずありません。

「文学研究」の本や論文を読んでも、まあ面白くないこともありませんでした。しかし、文学作品を書くことには意味がありますが、他人の書いた作品を分析するというのは、アホらしい作業に思えました。そんなこと「趣味」でしかないでしょう。「研究」と呼べるようなものではないよな……

そうはっきり自覚したときは、修士号を得て、博士課程に進学したあとで、にっちもさっちもいかない状態でした。もう、つぶしがききません。大量に文献は買ってしまっていました。「カネかけたんだから、元をとるまではやろう」と思うしかありません。先のことは、どこかの短大か大学に就職して食っていけるようになったら考えよう……

しかし、大学院の教授たちは、「女性は就職は考えないで、勉強を消費として楽しみなさい。就職先は、男性に優先的に回します」と言いました。私よりも、さらにはるかに馬鹿な男子の院生たちが、将来は倒産必至の弱小短大や大学に採用されていくのを、悔しい思いで眺めながら、私は、どうでもいいような論文をセッセと書き続け、発表し続けました。

三十三歳の年に、地方の某公立女子短大に採用されました。コネなしの公募で採用されたのは、母校の大学院の英米文学専攻出身者では初めてでした。教授たちは、「奇跡だ!」と言いました。なぜ「快挙だ!」と言えないの?しかし、おかげさまで、人間の器が小さい人々に恵まれて、私は、大学院生活でしっかり鍛えられました。

最初の就職先の某公立女子短大は、2年間で辞めました。労働条件が厳しいわりに給与が低かったからです。名古屋市内のキリスト教系女子大の短大部に応募し採用されたのが、三十五歳のときでした。ここは人的環境が劣悪でした。八年後に大阪府は和泉市にある桃山学院大学に応募し採用されました。やっと、落ち着いて働ける、まともな職場にめぐり会えたと感謝し安堵できたときは、四十三歳であったのです。

続く