私は憂鬱な英語教師だったけれども、希望が出てきた(その2)
前回において、日本の中学校や高校の英語教育や、はては大学などの英語教育に至るまで、「英語教育ごっこ」やっているとしか思えないと書きました。日本の学校教育は、日本人は英語など習得する必要はないと、ほんとうは思っているのではないか、と指摘しました。
私が尊敬する政治経済評論家の副島隆彦氏は、日本人の英語ベタは、「日本民族の無意識」による国防であるという見解を提示しておられます。以下は、『決然たる政治学への道』(弓立社、2004)からの抜粋です。
「言葉の壁によって日本人は、アメリカから日本の文化、社会、あるいは日本人の頭の中身そのものが、ばれてしまうことを必死で覆い隠そうとしているのである。そのためにおそらくこの民族の無意識の産物であろうが、「英語のできない英語学者や英語教師」という奇妙な現象的人間たちを、何十万人も大量に作り出して、いよいよ、アメリカやヨーロッパに対して日本の正体を、分からなくしてしまう。このことを、日本民族の無意識、あるいは半無意識の戦略で行ってきたようだ。これは、中華帝国に対して、有史以来、日本が取ってきた態度である。東アジアの覇権国である中国からの二千年来の支配に対して、日本語による共同体を守り抜くという意思が、日本人の中で非常に強く、そのことによって日本は独立国家としてこれまで、体を成してきた。」(233)
この本は、『政治を哲学する本』という題で1994年に総合法令から出版されたものの復刻版です。その復刻版の復刻版が、『 新版 決然たる政治学への道』として、装いもあらたに、今年2010年2月にPHP研究所から出版されました。この事実が示唆するように、この本は、知る人ぞ知る名著なのです。
引用文に記された副島氏の見解を、私なりに平たく説明しなおしますと、以下のようになります。「極東の海に浮かぶ離れ小島(群)の日本は、昔は中国の属国として、今はアメリカの属国として、貢物(みつぎもの)しながら大国の顔色をうかがわざるをえない国であり続けてきた。しかし、日本の本音は、鎖国して、自分にとって関心があるものだけ外国から取り寄せたい、というものである。漢語(中国語)や英語(および他の主たるヨーロッパ系言語)を勉強してきたが、それは、あくまでも日本が生き抜くための外国語勉強であって、中国やアメリカと認識や感性が近くなりたいからではない。あくまでも日本人は日本だ。日本人とは日本語で考え、日本語で意思疎通する人間のことだ。だから、日本の最強の国防は、日本人が日本語で物を考えることを維持することだ。外国語に脳を汚染されないことだ。だから、日本は、本気で英語教育をする気はない」と。
副島氏の、この「英語ベタは日本の無意識の国防」説は、岸田秀氏が、『ものぐさ精神分析』(青土社、1978/中公文庫,1996)で示した、日本人精神分裂症(統合失調症)説と重なります。岸田氏は、日本は黒船襲来以来、現実的には、アメリカに従属し、アメリカナイゼイションをせざるをえないと判断して、実際にそうしてきたが、本音のところは、アメリカの言うとおりなんかしたくないという精神分裂状態であり、太平洋戦争は、その抑圧状態が爆発したものであり、だから、戦時中は英語教育も捨てたのだ、と述べました。
副島説や岸田説から類推すると、日本の英語教育においては、日本の無意識たる「尊王攘夷派」(日本語脳を守れ!)と、日本の現実対処意識たる「開国派」(英語ができるようになろう!)が、ずっと闘っているらしいのです。「尊王攘夷派」が公教育や日本人社会一般で、「開国派」が、世界を市場としなければ生き残れないビジネス界や学界のようです。
幕末の「尊王攘夷派」が守りたかったのは、日本の伝統や文化や慣習や国柄でした。今となってみれば、その気概は、幼稚な自己肥大意識とまでは言いませんが、視野狭窄の産物でした。なぜならば、この地上の国々や民族で、純粋培養のものなど、何ひとつとして、ありませんから。民族の純血という概念など、無知の産物ですから。文化も人間も思想も宗教も、みなハイ・ブリッドの混合物ですから。日本固有の「伝統や文化や慣習や国柄」なるオリジナルなものは存在しません。それらは、日本の土着のものと外部から来たものとの混合物です。もしくは外部から来たものの換骨奪胎(かんこつだったい)です。
日本は、黒潮に乗って日本列島に流れ着いた南太平洋のポリネシア文化や、日本海の向こうの大陸の中国文化や朝鮮文化やモンゴル文化の影響を受けてきました。大陸から日本列島に渡ってきた人々も、土着日本列島先住人と同じくらいに多かったでしょう。人間とまではいかずとも、事物ならば、遠くはシルクロード経由の西域からやって来ました。思想ならば、仏教伝播という形でインドから、やって来ました。日本固有のものとされる神道でさえ、中国の道教の派生物かもしれません。
つまり、あらかじめ「尊王攘夷」は、失敗しています。守るべきものが最初から存在しません。「尊王攘夷」派が守りたかったものは、日本固有の「伝統や文化や慣習や国柄」ではなく、実は、「変化しないで、ずっと同じであること」であったのかもしれません。変化が嫌なのは、「生きながら死んでいること」を望むようなものだと言うのは、辛らつすぎるでしょうか。
「尊王攘夷」派が守りたかったものは、もともと存在していないものだったと言いましたが、では、前述の副島氏が言うところの「日本民族の無意識」が、日本語の壁によって守りたいものとは何でしょうか?日本語の壁によって国防するということは、日本人が日本語だけで、ちょっと日本語を学んだくらいの外国人には理解できないようなことを話して、日本人が考えていることを隠す、ということのようです。敵を撹乱する、ということのようです。
この場合、日本語という言語は意志疎通や相互理解の道具ではなく、「饒舌という鉄のカーテン」になります。げに、属国の言葉は哀しいです。属国の言語は、話者の思考や意志を明確にして伝えるものではなく、眩惑と曖昧と言いぬけと、もったいつけのために使用されるとまでは言いませんが、少なくとも、自己を隠すために使用されることになるのですから。
あまりに強力なる世界帝国アメリカに取り込まれないために、英語教育はしている真似だけして、なるたけアメリカ人と意思疎通できない人間の数が圧倒的である状態を維持することこそ日本の国防、という説には説得力がありますが、しかし、まったく反対の可能性も考えられます。つまり、帝国アメリカが、ほんとうのアメリカの姿を属国の日本人に知られないために、故意に、英語が苦手となるような英語教育の種を、第二次世界大戦後の占領下の日本の学校教育の中に植えつけた、ということだってありえます。
アメリカが中心となった連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が日本にもたらした新憲法制定や財閥解体や農地改革や学制改革などによって、日本は民主化を果たしたというのは定説です。一方、その民主化政策そのものは、日本の弱体化政策だったという説もあります。欧米諸国に刃向かうような大それた野望を二度と日本人が抱かないように、日本が弱体化する種を占領政策の中に、いっぱい植え込んだというわけです。
などと、私が、日本の英語教育にまつわる、根拠のない、あくまでも推測でしかないことを、あれこれ考えているうちに、状況が変わりました。英語は、属国が学ぶことを強いられる宗主国の言語ではなく、「世界共通語」となりました。
たまたま世界覇権国がアメリカだったので、国境を越えた物と人の行き来のために使用される言語と、情報革命により流通する情報の言語が、アメリカの国語たる英語になったことは、英語圏の人々にとっては特権的に有利なことです。ですから、その点に関しては、非英語圏の人々は割を食うといいますか、非常に不利なのではありますが、しかし、不利を怒っても、状況は変わりません。エスペラント語のような人工的世界共通語創設の試みもされましたが、世界は、さっさと英語を世界共通語にしてしまいました。ならば、その現状を受け入れるしかありません。
どこの国の企業でも生き残るためには、海外市場を開拓するしかないのならば、それをするのは「英語ができる社員」ということになります。つまり、ビジネスの世界で糧を得て生きていきたいのならば、世界に流通する情報に自由にアクセスしたいのならば、英語を習得しなければならないのです。
それを如実に示す出来事が、2010年の6月に起きました。楽天が、2012年から社内公用語を英語にすると発表しました。ファーストリテイリング(ユニクロ)も、それに続きました。
この出来事は、知識人や文化人の間に、賛否両論の小さな嵐を巻き起こしました。確かに、社内公用語を英語にした場合に、英語力があるだけの凡庸な人間が、創造性やリーダーシップのある社員を凌駕する危険があります。
しかし、英語力があるだけの人間を重用するような企業ならば、生き残れません。ちょっと長い眼で見れば、結局は、ビジネスの資質に恵まれ、かつ簡潔に平易な英語で伝えたいことが伝えられる力を持つ人間を選び重用することを、企業は学ぶでしょう。日本の企業が、まったく日本語なしで業務を進行させることは不可能ですが、現代の状況では、日本語だけでビジネスをすることも不可能です。日本語と世界共通語の英語の共存は、日本の企業の中でも、落ち着くべきところに落ち着いていくでしょう。
世界共通語としての英語は、世界覇権国アメリカの英語でも、旧帝国イギリスの英語でもありません。中国人や韓国人やタイ人やモンゴル人やロシア人やドイツ人やポーランド人やスペイン人やフランス人や日本人が、一同に会したときに使用する英語であって、意思疎通用の比較的シンプルな英語(Plain English)です。
少なくとも、若い人々は、この楽天とファーストリテイリングの社内公用語が英語になるというニュースに対して、積極的に歓迎というところまではいかずとも、「ま、しかたないんじゃないの」という現実適応志向の姿勢であるようです。現に、私が勤務する大学の学生たちの反応は、そのようなものです。彼らや彼女たちにとって、英語は、自国に原子爆弾を2つ投下した国の言葉ではありません。アジアだろうが、アフリカだろうが、ヨーロッパだろうが、それを使うことができれば、ナントカなる「便利な言語」なのです。
彼らや彼女たちは、特に英語が得意なわけでもないのですが、「英語できないと、これから食べてゆけないんだ」という認識は持っています。彼らや彼女たちの授業料を支払う親御さんの共通の願いも、「せめて、英語ぐらいはできるようになって大学を卒業してくれ」なのです。学生の、この認識と、彼らのスポンサーである親御さんの願いは、10年前のそれらと比較すると、その切迫感は、かなり強いです。これらの認識や願いに応えることができない教育機関は、捨て去られて行くでしょう。もう、英語教育ごっこをしている余裕はないのです。ビジネス界(および学術界)が、英語を公用語化していく流れは、止まりません。
副島隆彦氏が指摘したように、日本語の壁で日本を守る!というのが日本民族の無意識であるとしても、その守るべき日本は、すでにして、世界という大きな網の目の結節点となってしまっている時代に、私たちは生きています。英語を習得することに熱を入れることは、日本語をおろそかにすることであり、かつ日本を裏切ることであるなどという感情は、一種の取り越し苦労かもしれません。そもそも、母国語の日本語がおかしくなるほど、英語学習に熱心になれるものならば、なってみたら?であります。
私は、最近、こういう時代に生きていることを困難と思わずに、チャレンジだと思うような若い日本人が育っていくことに関与できる英語教師という立場にいることが、ちょっと嬉しくなってきました。生活の糧を英語教師であることから得ている私は、空虚なる英語教育ごっこの共犯者でいることに甘んじていた、日本における英語教師としての憂鬱な日々が、とうとう終るかもしれないという希望を感じています。
(第4巻169号)






























