アイン・ランドに正面から衝突することのゴリヤク(その5)
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実は、アイン・ランドの思想に、「哲学史上の大発見」などありません。「西洋近代個人主義に立脚した自由な市民社会」の原理を学校で習った人間からすれば、基本的なあたりまえのことを、アイン・ランド流に「過激に辛らつに」書いているだけです。The Virtue of Selfishness(『利己主義という気概』藤森かよこ訳)というエッセイ集は、1998年にアメリカの出版社ランダム・ハウスが実施した「20世紀に英語で書かれたノンフィクション・ベスト100」アンケートの一般読者部門において第1位を獲得したのですが、知識人の投票部門では、とことん無視されました。この事実が、このエッセイ集の「学術的貢献度の低さ」を示しています。
では、なぜ、この本が一般読者部門において第1位を獲得したのでしょう。The Virtue of Selfishnessは、アメリカ人の草の根の読者の頭に、特にエリートでもない普通の読者に、どの思想の本よりも、率直に真摯に熱気をこめて、たたきこむのです。「この世界に起きる出来事は人間に責任がある!誰のせいにもできない!この世界は個人の集まりでできているのだから、個人がきちんと生きないと、この世界は劣化するばかり!神や政府のせいにしてもしかたない!」と。これこそ、「西洋近代啓蒙精神のモンスター」です。「近代ヨーロッパのエトス」の純粋精神です。
ランドの思想内容を、もう一度確認させてください。 まず、ランドは「人間は生き物だ」という当たり前のことから思考を始めます。生き物である以上は、生き物にとって生きているということが、生き延びるということが最も重要なことであり、目標だと考えます。だから、人間が生き延びることに益になるものは「善」であり、人間が生き延びるのに障害になるものは「悪」だと考えます。
安全で快適が当然であって身の危険など遠い世界のことでしかないと思い、死を忘れている日本人こそ、ランドの「人は生き物なのだから、生き延びないといけない」というシンプルな命題の凄さを、まずは意識するべきではないでしょうか。
次に、人間はどうやって生き延びるのかとランドは考えます。植物ではないからじっと動かず日光や土の中の栄養素を吸収していて生き延びることはできないし、獣のように本能の中に生き延びるための行動がプログラミングされているわけでもない。獣のように身体能力が高いわけでもない。裸の猿みたいな非力な人間の場合は、すべて学習しないと、学習する機会が与えられないと、生き延びることができない。つまり、学習するという脳の力だけが、思考する力だけが、人間の持つすべてのものだとランドは考えます。
思考するということは、自分の外界の事物(現実)を、その事物のままに認識し、生き延びるために、それに対して自分がどう行動するべきか選択し決めることです。河があるのならば、生き延びるためには、河の深さや水流を確認し、魚の有効な採り方を考え魚を捕まえて食しなければなりません。もしくは、その魚に自分の労働を加えて干物にして長期保存を図るかもしれません。
人間が生き延びるということは、自分の欲望や願いでは変わらない客観的現実に働きかけて、自らにとって、価値あるものを獲得したり生産したりすることによって生き続けることであり、同時にそれは長期的視野から自分が生き延びることに利益になることを選択し実践していくという合理的な思考と行動の蓄積であると、ランドは言います。だから、この意味で、人間は利己的(selfish)でなければならないと言います。
ここで、「人間なんてみな利己主義でしょ?わざわざ薦められなくても、みんな、とっくの昔からそうだって」とランドを馬鹿にするのは簡単です。しかし、本当に、私たちは、ランド的に「利己的」に生きているでしょうか?「勝手気ままに欲望のおもむくままに生きる」ことは長期的に見れば自己利益に反するので、ランド的には「利己的」ではありません。
また、そういう存在である人間が、そういう存在である人間と関わるということは、互いの合理的な思考と行動によって獲得した価値あるものを、合意の上に交換するという関係であるから、正当な人間関係は、すべて交易者、商人(trader)の関係だとランドは言います。あなたがある人物を愛するのは、その人物があなたにとって価値あるものを提供できるからであり、有形にせよ無形にせよ価値あるものを他人に提供できない人間が「愛されたい」と願うなど、寄生虫のたかり屋の発想であると、ランドは言います。
こういう「価値あるものを交換する行為」としてのランドの愛情観は、特に日本人が反発するところでしょう。「生まれっぱなしのありのままを受け止めるのが愛」だという見解が日本では流通して久しいですから。何も努力せずにラクに愛されたいと望むのは、厚かましいとか、「我慢してそばにいる」ことが愛情だと思うのは、自虐趣味であるという発想は、日本人に、あまりないようですから。
さらに、「互いの合理的な思考と行動によって獲得した価値あるものを、合意の上に交換するという関係」が、あるべき個人と個人の関係のモデルであるのならば、そのような関係を規制しないし妨害しない経済の仕組みは何か?それは自らの価値あるものを合意の上に交換する自由市場の資本主義体制であり、他人が所有する価値あるものを奪い取る人間を抑止し、排除する夜警国家であると、ランドは考えます。実にシンプルで明快です。
そうです。アイン・ランドは、日本人的感覚からすると、実に楽観的な、おめでたいほどの「人間の可能性に対する信奉者」なのです。この世界は人間が構築するものだから、人間に責任があるのだし、その責任を負う力は、ちゃんと人間にある、という発想は、「人間は無力だ、自然の前では何もできない」と詠嘆することが愚痴ではなく、文化人の良心的言説として根付いている日本においては、とんでもない「うぬぼれ」に見えます。
「不埒な人間がいるのは現実だから、夜警政府運営資金として最低限の税金は支払わなければならないが、本来ならば、徹底して美徳にいたるほど利己的に生きる理性ある人間どうしの間には争いはない」と言うランドの見解は、「お上」を批判するばかりという依存の変形行為しかしない「下々」の人間には、とんでもない「身のほど知らず」に思えます。
しかし、実に楽観的でおめでたくとも、「うぬぼれ」や「身の程知らず」に見えようとも、自分たち人間の可能性を信じなければ、人間やっていても、しかたないのではないでしょうか?
あなたが平均的日本人であるのならば、必ず以下のような「つっこみ」を、アイン・ランドにしたくなるでしょう。当然そうなります。
- 人間は合理的思考と努力で価値あるものを生産することによって生き延びて、かつ、その生産物を他人が生産した価値あるものを交換して生き延びるとランドは言うが、合理的に思考も行動もできない人間はどうなるのか?価値を生み出せない人間はどうなるのか?
- ランドの資本主義観はあまりに単純で原理的で素朴すぎる。それはヒューマニズムであって資本主義ではない。実際には、営利だけを目的として、労働者から搾取して成立しているのが資本主義ではないか。ランドの言うような、道徳としての資本主義の原則(合意の上での互いの価値の等価交換)を守ることができると考えるのは、人間性善説にすぎる。
- 政府のやることは暴力から国民を守ることだけでいい、あとのことは政府の権限を拡大するだけで市民の自由を抑圧するだけだとランドは言うが、生活保護や社会福祉の「セイフティ・ネット」構築こそ政府の仕事ではないか。弱き者を守らない政治など政治ではない。
前に、「前近代的エトス」とは「お上」と「下々」の信頼関係が隠れた根拠になっているということを指摘しましたが、21世紀初頭においても「前近代的エトス」が濃厚に精神の基底に残る日本人は、実は非常に、楽観的な、おめでたいほどの「人間の可能性に対する信奉者」なのです。自分の根底にある、とんでもないほどの「向日性」に、日本人は無自覚なのです。
私は、アイン・ランドの思想が真に「効く」のは、この日本だと信じています。「前近代のエトス」の中で生きてきた自分を意識し、「ヨーロッパ近代のエトス」との差異を認識し、自分にとって納得できる「日本的近代のエトス」を考え、「前近代のエトス」を組み込んだ新しいエトスを作っていくしかないのですから、日本人は。「ヨーロッパ近代啓蒙精神のモンスター」であるアイン・ランドに衝突し、脳が稼動を始めたら、ランドの精神を生かしつつ、ランドが説明しなかった問題(前述のつっこみ点)の解決策を考え実践することにシフトしていくためのエネルギーになるのは、何よりもランド的な、おめでたい「人間の可能性に対する信頼」なのです。
日本の国家破産は確実です。天変地異は現にどんどん起きつつあります。それでも個人の人間は、生き延びていかなければなりません。まずは、アイン・ランドに衝突して、「人間の可能性に対する信頼」を胸に刻むことです。それが、日本人にとっての「アイン・ランドに正面から衝突することのゴリヤク」だと、私は思うのです。(終り)




























