アイン・ランドに正面から衝突することのゴリヤク(その2)
「人生は想定外---私がロシアに行ったわけ」はこちら

前回の最後に、私は「日本人が実質的には前近代的エトスのままでいるから、まずはアイン・ランドと衝突して頭をはっきりさせよう」と書きました。「日本人」と書いておりますが、もちろん「日本人」と十把一絡げにすることはできません。「日本人」というひとつのまとまった集団の人格があるわけではありません。個人と個人が属する集団を同一視するのは、これまたアイン・ランドの最も嫌うところでした。ここでは、日本人に見受けられる平均的傾向という程度でお考えください。
「前近代的エトス」とはいっても、前近代の戦国時代でも江戸時代でも、近代的精神の持ち主はいたでしょう。天才というのはいつの時代にもいます。反対に、21世紀初頭になっても、原始時代の部族社会に生きているような精神の人間もいるでしょう。パワハラとかセクハラと呼ばれるような言動をして恥じない原始人は、21世紀になっても、やっぱり生まれてくるでしょう。本エッセイにおいては、あくまでも、「日本人に見受けられる平均的傾向」について考えます。
では、「前近代的エトス」とは、どのようなものでしょうか。その精神性を説明すれば、以下のようなものになるでしょう。アイン・ランドから、ちょっと話題ははずれますが、「うざいなあ」と思われるでしょうが、読んでやってください。すみません。
(1)事実を事実のままに見ない。
| ★ | ある現象が起きたら、その現象を、いくつかの事実の蓄積の帰結として見ない。原因と結果の因果関係を追及しない。現象を事実(現実)の外部にある何かの作用だと考える。もしくは、現象を比喩的に解釈する。たとえば、家族に不幸が続いたら、「たたり」とか「呪い」とか「先祖の因果」のせいにする。自分の人生が不如意である原因を事実から推し量り、不如意を解消軽減しようとはしない。前提としてそういう人生を送ることが定められている(=悪い星の下に生まれた)と考えたりする。思い込みという妄想の中に閉じこもる。 |
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(2)世の中のありようを「所与のもの」と考える。
| ★ | 自分が生きる社会の慣習や仕組みを全く動かすことができない絶対条件として考える。かつ、自分がそう考えているという自覚がない。たとえば、自分の労働を投下して得た収入の一部を税金として「お上」に徴収されることを重荷とは感じても、それは当然しなければならないことであり、受容するしかないものと思う。そういう仕組みの合理的根拠を考えないし、そのような仕組みを変える可能性も考えない。自動的に機械的に受け取り疑問に思わない。 |
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(3)自我が浅く薄く、独立個人(sovereign individual)の意識がない。
| ★ | 心的エネルギーがもっぱら外界への反応と適応に費やされる。世間や他人の目から自分がどう見えるかには関心が高いが、面子(めんつ)や体裁にはこだわるが、世間や他人の目が及ばない自分自身のありようを意識し、そのありようが自分から見て好もしいのか、そうではないかについては拘泥しない。他人には見えない自分自身のありようを評価判断するだけの内面化された道徳や価値観の体系や美意識が形成されていない。誰よりも自分が自分の裁定者であるという自己管理意識と自己への信頼がない。 |
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(4)だから、自分と他人の区別がつかない。
| ★ | 誰よりも自分が自分の裁定者であるという自己管理意識と自己への信頼は、自分以外の他人にもそういう意識(心)があるということを気づかせる。その認識は、ひとりひとりの人間には独自の人生と、その人間のありよう(人格)があるという認識を導き出す。その認識は、自分とは違う存在との関わり方、交通方法を模索させる。他人は自分とは違う存在なのだから、自分とは違うことを感じ思っている他人と関わる際には言動には用心するという構えができる。しかし、自我が未成熟で個別性への意識の度合いが低いと、自他の区別がつかず、コミュニケーション能力が鍛えられない。 |
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(5)上記の(1)から(4)の結果として、人間の生を大事にしない。人間の尊厳という概念が養成されない。
| ★ | 「事実を事実のままに見ない」のであるから、事実をとことん検証しないのであるから、問題は放置され、不如意や不幸は無意味に蓄積される。 |
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| ★ | 「世の中のありようを『所与のもの』と考える」ので、問題は放置され、不如意や不幸は無意味に蓄積される。 |
| ★ | 「自我が浅く薄く、独立個人の意識がない」ので、より良い自分の生き方を求めないので、問題は放置され、不如意や不幸は無意味に蓄積される。 |
| ★ | 「自分と他人の区別がつかない」ので、他人に自分の意図が伝わるように自分の言動を管理する努力が習性になっていないので、人間関係に葛藤が生じても、解決できない。問題は放置され、不如意や不幸は無意味に蓄積される。 |
| ★ | 結果として、自分という人間が持つ力を発揮せず使いこなすこともしないし、他人がその力を発揮し使いこなすことに対して理解しないし助力もしない。よって、問題は放置され、不如意や不幸は無意味に蓄積される。個人も状況も改善しないし進歩もしない。 |
ここまで我慢して読んでくださった方々ならば、すでにお気づきだと思うのですが、「前近代的エトス」というものは、実は、ごくごく普通の人間のありようです。どこの国だろうが、どの時代だろうが、人間の通常の無理のない自然なありようとは、こういう「いい加減」なものです。
だいたい、人間は事実を事実として見ることなどしないものです。ある現象にいろいろ意味づけするのが普通です。事実を何かの比喩として解釈してしまうものです。「視て理解する」といっても、自分の蓄積してきた情報の範囲に入らないものは認識できません。つまり理解するということは自分の内面の反映でしかないということは、正常なことです。
事実をありのままの事実としてみて、その事実の因果関係をしつこく探求するという「科学的精神」というのは、天才か、特別に訓練鍛錬されないと身につきません。夕焼けを見て、夕焼け雲の赤さが鮮やか過ぎると、その美しさが不吉に感じられて、「大地震の前触れしかしらん?」と思うのです。夕焼けの鮮やか過ぎる雲の色を見て、その原因を湿度や温度から推察するほうが鈍感なのです。
また、人間は世の中のありようを「所与のもの」と考えるのが普通です。いちいち疑いません。「1日に3度の食事というのは習慣であって、1度の食事が習慣になれば、それに慣れて空腹は感じないのではないか」とか、「午前9時から午後5時までが労働時間ならば、半年1日16時間働いたら、半年は有給休暇という働き方もありえるのではないか」とか考えません。
さらに、人間の自我が浅く薄く、独立個人の自覚がないのも、あたりまえのことです。目の前の現象や外界に気をとられているのが普通だからです。自分と他人の区別がつかないのも、あたりまえのことです。自分がしてもらいたいことを他人にするのが親切であり、「お人好し」と呼ばれる行為なのです。
また、問題が多々あろうと現状維持で生きていくのも、人間の常ではないでしょうか。より良い自分や世の中を求めて、自分ができることを、めいっぱいするなどという生き方など面倒くさいです。ラクに走るのは人間の常です。「前近代的エトス」とは、「ふつうのそこそこ快適な無理しない生き方」なのです。このことについて、もう少し検証させていただきます。(続く)



























