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エッセイ:秋林哲也の文章の話

文章をめぐるエッセイ(25)

秋林哲也
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「ゴンベエ踏切の家」

横須賀線の電車に乗って鎌倉から東京へ向かうと、次は北鎌倉です。北鎌を発車して30秒ほど、小さい踏切を「沿線の石のように黙殺」して通過します。通称ゴンベエ踏切というところですが、この踏切の右奥に一軒の和風の家がちらと見えます。高見順の家です。

私が写真を撮ったのは1957年のことで、高見順はこの5年後から日本近代文学館設立のため東奔西走しました。1963年に財団法人日本近代文学館が発足し、その理事長になります。しかし、同年、食道癌のため入院し病床で「死の淵より」の詩を書きはじめました。

後年、私が『昭和文学全集』の仕事でゴンベエ踏切を通って高見邸を訪れたのは、ここの主が亡くなったあとのことでした。

夫人の高間秋子さん(高見順の本名は高間芳雄)がお寿司をごちそうしてくださって、長い時間いろいろと話をし、亡くなった作家の思い出話も聞きました。その折、厚い文庫判の本をいただきましたが、それは「高見順十七回忌追悼記念」の私家版として出された『敗戦日記』でした。刊行者高見秋子・鎌倉山の内六三三、となっています。


『敗戦日記』高見順十七回忌追悼記念版

『いやな感じ』高見順二十回忌追悼記念版

1945年(昭和20年)1月1日から12月31日まで360ページに収録されていて、あの饒舌体の文章とともに新聞記事や雑誌の目次、映画と演劇の芸能欄の一覧表まで引用されていたりします。「『あとがき』のあとがき」として秋子夫人が書いていますが「高見の死後……日記以外にもたくさんのノート群が見つかりました……創作ノートが数多くあるのは当り前として圧倒的に多いのは何と言っても日記群でした」。

『高見順日記』が、作家の亡くなる前年に勁草書房から刊行されていますが、全8巻9冊もあり、没後10年に刊行の『続高見順日記』は全8巻というものです。
「ひまさえあれば机の前に坐りこんで、ノートに何やらちくちく書きこんでいる高見のうしろ姿を思い出します。……せっせと日記を書いているときの姿です」――という秋子夫人の回想ですが、親しかった中村真一郎も「やはり『書き魔』とでも名付けるより仕方のないデモンを、精神のなかに生まれつき棲まわせていて」と書いています。

あの大きな身体を曲げて、いつもいつも書いていたのでしょう。小説を書くときには決まった枚数や〆切期日があって、それに合わせて書くことになりますが、日記となるとなんの制約もありません。好きな文体で書きたいだけ書いていいわけです。その代り原稿料はありません。


高見順が描いた自画像  『敗戦日記』より

正・続8巻ずつにもなる日記を書き綴っていました、毎日毎日長々と書いた、というのでもありません。日によっては 1、2行というところもありますが、やはり饒舌というのでしょうか、ずいぶん長い日も多く見られます。『敗戦日記』からためしに拾ってみますと、400字原稿用紙に換算して8月9日には10枚、8月10日12枚、8月15日10枚、9月12日15枚、10月29日15枚――といったぐあいです。

この饒舌な作家は、話すときにも饒舌だったのでしょうか。残念ながら私は一度も話したことがありません。それで近代文学館創立のときに一緒に仕事をしていた倉和男さんに聞いてみました。「必ずしも饒舌ではなかった、思慮深いものの言い方をする人だった」――と教えてくれました。

とすれば、あの文体は小説を書くために作家が選んだ文体、「描写のうしろに寝ていられない」熱っぽさから生まれた文体、ということになるのでしょうか。

※秋子夫人の没後、高見邸は別の家に建てかえられました。

2010年6月14日号
(第4巻159号)