入門翻訳勝ち抜き道場

エッセイ:秋林哲也の文章の話

文章をめぐるエッセイ(24)

秋林哲也
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「描写のうしろに寝ていられない」

開花宣言が「ようやく」といった感じで出されましたが、開花は年々早まっているようです。それよりも、開花を待ちわびる人の心の方が、早く早くとせきたてているようで、「いとあぢきなし」とでも、いにしえの人からは言われそうです。

でも、昔に比べると開花は早くなっていますね。ある「定点観測」の写真を私は持っているのです。鎌倉の円覚寺と建長寺、それに大仏の高徳院で撮った写真で、それぞれの境内の桜が満開です。写真の日付は1957年4月12日、今から53年前。半世紀前の鎌倉の桜は今年よりも20日程も遅いことがわかります。


1957年4月12日、鎌倉建長寺の境内の桜は満開だった。

この日付の写真をどうして大事にしているかというと、一つの記念すべきことが写っているのです。来日していたソ連の作家、イリヤ・エレンブルグ夫妻が大仏を見物していて、高見順がつきそっていました。高見順はそのころ日本ペンクラブの役員をしていて、エレンブルグを鎌倉に案内したのでしょう。この年の9月には、東京で第29回国際ペン大会が開かれているし、翌年4月にはソ連作家同盟の招きで高見順が訪ソし、エレンブルグに再会しています。

高見順は、ちょうど50歳、「わが胸の底のここには」(続編)を〈文芸〉に連載していましたし、エレンブルグも『雪どけ』の作家として話題になっていました。思いがけない幸運に出会った私は大学の2年生、小さな古いカメラでしたがパチパチ写真を撮りました。

帝政ロシア時代に地下運動で逮捕され亡命、革命後帰国したものの複雑な思いで生きていたエレンブルグと、戦時中の治安維持法違反で検挙され、つねに「転向者」としての傷を負っていた高見順とは、深く通じる思いがあったにちがいありません。

高見順は、いつものように和服姿で、エレンブルグよりも背が高く、手をうしろに組んでゆっくり歩いていました。


左:着物姿の高見順と大仏の前を歩くエレンブルグ。 右:高徳院境内のエレンブルグ夫妻と高見順。

前回、横光利一の「機械」の文章を紹介しましたが、横光はこのあと『純粋小説論』(昭和11年1936)などを発表して、3人称ならぬ4人称というものを設定し、「自分を見る自分」の視点を考えたり、さまざまな新しい文学・文体の試みを続けていました。

ちょうどこれと同じころ、高見順は「描写のうしろに寝ていられない」という、有名な言葉になった評論を〈新潮〉に書きました。

描写は文学に於ける民主主義である。客観的存在である以上……平等の市民権を有するというのが、描写のたてまえである……私の疑いは、描写の前に約束された客観的共感性への不信のような所から出ているのである

……描写にのみ終始縋(すが)って書けない心許(こころもと)なさが、物語る
熱ツぽさを必要とするのであろう。

と高見順は言います。

その当時書かれた『故旧忘れ得べき』は、第1回芥川賞候補になった作品ですが、「八方敗れの饒舌体」とも言われる説話的文体で、屈折した知識層青年たちの気分を描いたことで知られています。

酔払った小関は沢村追想の意味で「故旧忘れ得べき」を歌おうじゃないかと言った。――コキュー?篠原が言った。Cocuの意味に間違えたのだ。――コキュー忘れ得べきとはなんだ。――古い友達を忘れることができようか。Should Auld Acquaintance Be Forgot……。小関が小声で歌い出した。――「蛍の光」じゃないか。――そうだよ……。

終り近くの数行ですが、引用に困るほど長いセンテンスが続く小説で、これだけではちょっとわからないかもしれません。「胸のモダモダを吐き出すような侘しいヤケな歌声であった。」で終っています。

2010年4月12日号
(第4巻152号)