文章をめぐるエッセイ(20)
チェーホフのポエジー

1960年に中央公論から刊行された『チェーホフ全集』のカタログ
チェーホフの多くの作品で特長的なのは、物語の最後がとても印象ぶかい文章で終っていることです。どの作品もそうだ、というわけではありませんが、私の好きな作品の多くはそうだし、そのように終っている作品が心に残るのかもしれません。
たとえば名作「犬を連れた奥さん」の最後は、
……そして二人とも、旅の終りまではまだまだ遥かに遠いこと、一ばん複雑な困難な途がまだやっと始まったばかりなことを、はっきり覚るのだった。(神西清訳)
というのです。人物設定は違いますが、キエフへの汽車旅の途上、車窓から見た夕暮の親子の姿に重なります。あの時私は、この文章を無意識のうちに想い起していたのかもしれません。
「中二階のある家」の有名な最後の文を、覚えている方は多いのではないでしょうか。
……向うでもわたしを思いだし、待っていてくれ、そのうちまた会えるに違いない、という気がしてくることさえある……。ミシュス、君は今どこにいるのだ?(原卓也訳)
これは「退屈な話」の終りにも似ています。
……彼女はわたしがあとを見送っているのを知っている。多分、曲り角で振返るであろう。
いや、彼女は振返らなかった。黒い服が最後にちらりとして、足音も次第に消えた……さようなら、わが宝よ!(中村白葉訳)
こういう小説を書いたチェーホフという作家の、ほほえみの奥に悲しみを感じさせる表情に、若い頃の私は親しみをもったものでした。
終りの部分だけに限らず、チェーホフの作品にはツルゲーネフのものとは異った抒情性がこめられています。より複雑な色調の、というのでしょうか。
灯火の長い列は、次第に密に、次第に光を弱めながら、線路に沿うて地平まで延び、それから左へ半円を描いて、遠い夜の闇の中へ消えていた。……それらの火と、夜の静寂と、悲しげな電線の歌の中には、何やら相通ずるものがあるように感じられた。(「灯火」より中村白葉訳)
登場人物の1人である学生は、この灯火の列が何千年も前のこと、「まるで旧約聖書中の人々が野陣を張って、サウールやダビデと戦うために、朝の訪れを待っているような気がするのです」と言います。

「中二階のある家」の挿絵
こうした奥行きのあるポエジーは、中編小説「谷間」にいちばんよくこめられているような気がします。「それを読むと小説を書きたくなる小説」の一つで、私の中では高いランクです。貧しい農村を描いた小説ですが、人間の善意と悪意とが、なにかもっと大きなものにくるまれて描かれている、といった感じで、やはりチェーホフのあのほほえみを思わせます。
「ポエジー」と言いましたが、詩作品(ポエム)そのものを翻訳でおきかえることは困難です。その言語の美しさ、音楽性は翻訳不可能です。しかし、散文作品・小説の中にこめられているポエジーは翻訳でも伝えられると思います。
……向うでも私のことを思い出しているのだ、私を待っているのだ、そして私たちはまた会うのだ……と云うような気が、どうした訳が少しずつし始めている……ミシューシ、君はどこへいるの?(井上満訳)
「中二階のある家」の最後ですが、翻訳が異っていても、その「ポエジー」はへだてなく伝わってくると思いませんか。


























