文章をめぐるエッセイ(19)
チェーホフの通奏低音
『1Q84』(村上春樹)の勢いが止まりません。本が売れない売れないと言われているのに、この本は発売前から注文が殺到し、発売1週間で100万部(1、2巻)に達したと報じられていましたが、7月7日の新聞には200万部突破と出ておりました。
その頃、本屋さんに行った方は、「売切れ、ご予約受付」という貼り紙をごらんになったことでしょう。
この本に関連したものにも陽が当って、作品の冒頭に出てくるヤナーチェックの曲「シンフォニエッタ」のCDにも、この1週間に過去20年間分の注文があったというし、ジョージ・オーウェルの『1984年』も、これから新訳が発売されるのに、すでに1万部をこえる注文、ということです。
『1Q84』BOOK1の第20章には、サハリンの先住民族ギリヤ―ク人のことが書かれている本を、主人公の天吾が年上のガールフレンドに読んで聞かせるシーンがあります(ちょっとシュリンクの『朗読者』みたいですね)。
この本というのがチェーホフの『サハリン島』で、中央公論社では『チェーホフ全集』のなかの『サハリン島』だけ新装発売するとか、岩波文庫の『サハリン島』も復刻されるという具合で、「ムラカミ特需」などと新聞に書かれています。

1965年に発行されたイサーク・レヴィタンの画集。
いずれにせよ、本が売れるのはよいことだと思い、近頃景気のよい話から始めましたが、前回のツルゲーネフの次にチェーホフのことを話そうと思っていたのです。
ツルゲーネフの作品の叙情性は、レヴィタンの絵やチャイコフスキーの音楽の美しさを思わせる、と書きましたが、じつはレヴィタンはチェーホフと同じ年の生まれで、親交を結んでいました。チャイコフスキーの方はそれより20歳上ですが、やはりチェーホフとは親しかったといわれています。
ずいぶんまわり道をしましたが、「好きな作家は?」と聞かれると「チェーホフなんか好きですね」と答えることが多いのです。すると相手は意外な顔をします。ふつうチェーホフというと「かもめ」「桜の園」といった戯曲をまず思いうかべるからでしょうか。戯曲はセリフ、小説は文章と分けて考えるようです。戯曲は見るもの、小説は読むものというわけですが、作者にとってはどちらも「書くもの」に変わりありません。そしてそのどちらにも、チェーホフの場合は独自の叙情性が同じトーンで貫かれています。
ロシアがまだソ連だった時代に、私はあの国の国家出版委員会の招きで、ソ連・東欧の出版社を訪ねる旅行をしたことがありました。
レニングラード(現ペテルブルク)からウクライナのキエフまで、30数時間もかけて汽車で行きました。白ロシアなども経由して延々と走り続ける長旅でした。
平原に陽が落ちる頃、1本の道が線路に交差していて、その信号も遮断機もない踏切に、母親と5、6歳の女の子が長い旅客列車の通過を待っているのが見えました。
2人の行く手の道は細々と遠く夕靄(ゆうもや)にかすみ、歩いてきた道ももうさだかに見えません。小さな荷物を手に持って、母子はこれからどこまで歩いてゆくのだろう。周りには人っ子1人見えず人家も見当りません。「われわれはどこから来たか……われわれはどこへ行くか」という言葉を思いながら、小さくなってゆく母子の姿を見送りました。今でもあの情景を思いうかべると、なにかしら胸が痛くなる感じがします。
チェーホフの文章には、この種のトーンが通奏低音として鳴っていると思うのです。




























