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エッセイ:秋林哲也の文章の話

文章をめぐるエッセイ(16)

秋林哲也
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芥川の「文章」のこと

芥川龍之介 「保吉もの」を書いていた頃の芥川(大正14年)。この有名な肖像は、作家というものへの畏敬の念を私に植えつけた。

「トロッコ」のついでの話題ですが、芥川龍之介には「文章」という題の20枚ほどの短編があります。

芥川が横須賀の海軍機関学校で英語を教えていた時にあったと思われる内容で、亡くなった海軍士官のために弔辞を代筆する話です。学校の副校長をしている海軍大佐から頼まれ、顔を知っているだけのある軍人の死を悼む文章を書かなければならなかった。それまでにも2つばかり書かされていたのです。

海軍機関学校に勤めていた頃には、「鼻」や「芋粥」などをすでに発表していて、新進作家として認められていたと思うのですが、海軍の軍人から見れば、大学を出たばかりの若い作家など弔辞やなんか代筆してもらう格好の「文筆業者」に見えたことでしょう。

「じゃ、どうにかこじつけましょう」――と引き受けるのですが、これはいついつまで造花を届けてくれ、と言われる葬儀社と同じく、「精神生活上の葬儀社である」と自嘲しています。

芥川はこの頃、「きりしとほろ上人伝」を雑誌に書いていて、その残り半分の〆切が迫っているところでした。「元来仕事に手間のかかる彼には出来上るかどうか疑問である」と書いています。芥川のような天才は書くのが速い印象を私などはもっていましたが、これは本人の述懐です。ただし小説の中の言葉ですから、そのまま受けとっていいかわかりません。

頼まれた弔辞は、いまいましく思いながらも、がんばって30分ほどで書きあげました。

当日、校長の海軍中将は、作家の書いた弔辞を棺の前で「筆舌を超越した哀切の情をこもらせて」読みあげ、遺族の涙を誘いました。

一方、幾晩も苦労して書いた小説の方は、読売新聞の月評で酷評されていました。芥川は、いや小説の中では「堀川保吉」という名前になっている、いわゆる「保吉もの」なのですが、運命がいつこうした「悲しい喜劇の幕を下してくれるのであろうか」と歎じています。この短編は芥川の亡くなるわずか3年前に発表されたものです。

それまでに書かれた芥川の短編小説は、「題材と文体とのブリリアントな結合」をもっていた、と中村真一郎さんは言っています。そのようなものからぬけ出すための試みとして、私小説的な、告白小説としての「保吉もの」が書かれたわけですが、その一つが「文章」という題名の小説であることは、なにか暗示的なことでもあります。

弔辞の成功、小説の失敗――ということに対して、保吉が「心細い気のすることは事実である」となっています。それで夕暮れの帰り路、とある「垣の下へ長ながと寂しい小便をした」のですが、そこは垣ではなく、ギイと垣の木戸を開けて口ひげを蓄えた男が顔を出し、「困りますなあ」と言われて文字どおり立往生して、この小説は終りになります。

ところで「きりしとほろ上人伝」の文体は、「天草本伊曽保物語」によっていて、

遠い国のことでおぢやる。「しりあ」の国の山奥に、「れぷろぼす」と申す山男がおぢやつた。

という文章で始まっています。また「奉教人の死」も、

去んぬる頃、日本長崎の「さんた・るちや」と申す「えけれしや」(寺院)に、「ろおれんぞ」と申すこの国の少年がござつた。

という書き出しです。芥川が題材によっていかに文体を変えていたかを物語るものです。

保吉の書いた弔辞は、軍人たちに「名文」とお世辞を言われていますが、「君、資性頴悟兄弟に友に」という一句以外、残念ながら小説の中には出てきません。

(つづく)
2009年4月20日号